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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
    五 様々な特産物
      外字と麻布
 麻の種類は大きく分けて、大麻と苧麻があり、古代から近代まで県内各地で生産され、衣料・魚網、茣蓙の縦糸、蚊帳用糸、苧縄用などに加工して幅広く使用されていた。大麻は毎春播種する一年生草本だが、苧麻は多年生草本で山野に自生した。越前に残る慶長三年(一五九八)の太閤検地帳には、足羽郡二上村・大野郡巣原村・今立郡莇生田村・丹生郡横根村・南条郡鋳物師村に麻畑がみられる。検地帳に麻の記載がない村々においても、麻を栽培したり苧麻を採集して糸を績み麻緒や布(木綿の普及以前は糸・布といえば、麻糸・麻布を意味した)が作られていたと思われる。
 夏の土用頃に刈り取った麻を、水に浸し、さらに蒸す、煮るなど地域によって異なる多くの手数を経て表皮を取って(苧ひき)粗麻にし、さらに手を加えて精製して苧にして貯蔵し、秋の取入れが終わる十一月下旬から翌年の春先まで主に女子の農間余業として、苧を細くさき、口にくわえ唾液を利用して繋ぎ、これに糸車で縒りをかけながら細く長い麻糸に績み小枠に巻き付け、さらに大枠にかけて外字にし、自家用としたり仲買人に売ったりした(『福井県史』資15)。糸の太さは用途によって種々あるが、市場に出す外字一個の目方は普通三〇匁ほどで細糸の場合は一〇匁内外のものもあった。農家の自家用には目方をかまわず五、六〇匁の太糸もあった。農家が仲買人に売る外字一個の値段は普通五匁前後であったが、一個を一日で生産する人は村中でもよほどの巧者で、二日で一外字が平均であった。冬期四か月に一人の生産額は五〇外字ほどであった(『鯖江市史』民俗編)。
 鯖江藩では嘉永二年(一八四九)十月、各村の一五歳から六〇歳までの女子一人につき二月までに苧外字三五個ずつを差し出させ、庄屋はその数を元帳に記入し、鑑札を持った仲買人または西鯖江村の新兵衛に売り渡すよう指示し、他所へ抜け売りした場合は処罰すると触れ出している(『鯖江市史』四)。嘉永六年の今立郡東庄境村では、戸数およそ一〇〇軒の内八〇軒の家で苧外字を生産し、その総計は三三六二個であった(「苧外字員数書上帳」小林弥平家文書)。
 寛保三年(一七四三)頃には、糸苧が国内各地で作られ、また白布・貲布や縞布が足羽・今立両郡から生産されていたが(「越藩拾遺録」)、越前・若狭で生産された麻糸の大部分は近江へ運ばれ蚊帳の材料とされた。
 福井藩では貞享三年(一六八六)頃、綿麻蝋奉行が麻の生産・流通の支配をしていたが(「御用諸式目」 資3)、近世末期、制産役所を通して苧外字仕入金を貸し付けて苧や麻布生産の振興を図った(小林弥平家文書)。
 安政(一八五四〜六〇)年間府中の山本甚右衛門・水屋長三郎、粟田部の重野六十九等は近江から蚊帳生産の技術を導入し、明治初期にはその産額が近江を凌ぐ勢いを示した。明治七年(一八七四)の『物産表』によると、麻の生産価格は、敦賀県が栃木県に次いで全国第二位であった(『日本産業史大系』1)。



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