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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      吉田郡松岡の鋳物師
 松岡町は、中世から明治・大正(一九一二〜二六)期まで、芝原(志原、新原)・志比境を中心に鋳物師の町として知られていた。福井市左内町の西光寺にある永正十三年(一五一六)鋳造の梵鐘の銘に「鋳師 志原 山岸兵衛尉家次」とあり、大永三年(一五二三)鋳造の越前町小樟の看景寺の梵鐘には「大工 新原住 藤原朝臣彦左衛門吉久」とあり(「越前釜(一)」『越前文化』6号)、また天正八年(一五八〇)の「柴田勝家判物案」(『中世鋳物師史料』)に芝原金屋鋳物師中宛の文書が見られるなど、松岡ではすでに中世から鋳物業が営まれていたことが知られる。
 近世の松岡の鋳物師の主流は、窪村の渡辺藤兵衛と志比境村の清水四郎平であり、明和元年十月と同七年八月の二度、松平重富(十二代福井藩主)が松岡の細工所を視察した時には、藤兵衛と四郎平が麻裃を着用して出迎えている(「永代帳」渡辺禎子家文書)。彼等が、全国の鋳物師を掌握しようとしていた真継家の支配下に入ったのは文政頃のようで、同家からの「鋳物師職免許状」が文政三年に清水四郎平宛に、同六年に渡辺藤兵衛宛に出されている。これらの文書は、幕末に松岡の鋳物師株を購入した坂井郡鷲塚村の久保文苗家に残されている。
 松岡の鋳物師は村の一地域に集まって営業していた。窪村の例を元禄十年の「松岡町家数間数之帳」(吉野屋文書)でみると、藤兵衛(間口一五間)・与惣右衛門(間口一〇間)・次郎兵衛(間口八間三尺)・猪左衛門(間口五間三尺)の四軒が窪の北町に軒を並べており、それぞれが一二〇坪の細工所(金屋屋敷)を家の裏に所有していた。

表92 渡辺家鋳造鋳物の種類・寸法・口数

表92 渡辺家鋳造鋳物の種類・寸法・口数


表93 清水家鋳造鋳物の種類

表93 清水家鋳造鋳物の種類

 渡辺家の「永代帳」には、寛文十年から安永三年までの約一〇〇年間に製作した一三二口の鋳物の種類・目方・寸法・値段・納入先などが記されている。その種類・寸法・口数の概要は表92のとおりである。このうち、大釣鐘は二口で福井の浄光院(差渡し三尺一寸五分)と府中の陽願寺(同三尺五寸)に納入されている。釣鐘七九口のうち最も多いのは差渡し二尺三寸のもので一八口、二尺五寸のもの一〇口であり、半鐘四一口のうち一尺二寸と一尺三寸のものがそれぞれ一〇口であった。百人鍋は台所用と書かれ、値段は二二匁とあるが寸法の記入はない。納入先を郡別に見ると、敦賀郡を除く越前全域に及んでおり、坂井郡が三六か所と最も多く、次いで足羽郡二三、大野郡一六、今立郡一五、丹生郡一三、吉田郡九、南条郡六と続く。越前以外へも移出されたと思われるがここには記載はなく、国外の分は別帳に記録されたのかも知れない。
 志比境村の清水家の得意先も渡辺家と同じ敦賀郡を除く越前全域に及び、さらに加賀・越後からの注文も受けていた。鋳物の種類は、表93のように鐘・釜・鍋のほか種々の物があり、渡辺家が鐘を主に鋳造していたのと比べて相違があったようだ(清水征信家文書)。
 青森県むつ市田名部常念寺に、芝原の鋳物師渡辺甚太夫が正徳二年(一七一二)に鋳造した半鐘が二口現存する(「下北半島における越前文化(上)」『歴史考古学』八号)。口径がそれぞれ三六・五センチメートルと三〇・五センチメートルあり、「大工越前之国柴原之住藤原朝臣家次渡辺甚太夫」と刻されている。同寺には元禄十三年三月越前柴原渡辺藤兵衛鋳造の口径二尺五寸の釣鐘もあったが、今次の戦争で供出されている。同地方には同十一年の渡辺家鋳造の釣鐘がさらに二個あったが、これも供出されている。松岡の鋳物が遠く東北地方に伝えられた一例である。
 近世末になって鋳掛職が鋳物師の職場に多く入り込んできたので、安政五年に志比境村の清水杢右衛門は四郎平・藤兵衛とともに、福井藩の奉行に鋳掛職の取締りと三国湊の大砲職平野屋新右衛門の鋳掛職の分を杢右衛門に支配させてほしいと願い出ている(清水征信家文書 資4)。旧来からの鋳物師は次第に不振になり、嘉永四年清水四郎平は鋳物師株を坂井郡鷲塚村久保庄右衛門に銀二七貫匁で質入れするなどのこともあって(久保文苗家文書)、明治期に入ると松岡鋳物師は衰微していった。



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