目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 農村の変貌
   第四節 漁村の変貌
    四 枝浦の独立
      食見の浦立
 『通史編3』第三章第四節で述べたように、三方郡食見浦は世久見浦の枝村で、近世初頭から製塩業に従事していた。文化四年の「雲浜鑑」では、食見は岡鶴と共に世久見浦の「小名」の一つとされている。
 文化十年八月二十日の「世久見浦・食見浦本村枝村出入裁許状」によれば、同三年に食見を「浦立て」し、これまでの組頭役は庄屋役となった。しかしそれはあくまで世久見の「枝浦」の扱いで、「去巳年」(文化六年か)に海草採りの舟仕立てを願い出ているが、食見としての「海成」の上納がないことから却下されている。本浦が「漁浦」であったのに対し、枝浦が「塩浦」であるなど浦柄が異なる上に、二つの在所が遠く離れていることなどから、枝浦の独立の要求を半ば認める形で、庄屋の二人制を認めたが、完全な独立は結局許されなかった。したがって、食見浦の庄屋役は年貢の「取立ヲ始、面割・宗旨改ニ至迄本村同様ニ仕」ることはあっても、食見浦の「取纏役」にすぎず、同浦の貢納は藩への直納という形では許されず、あくまでも本村の世久見浦を通してしか認められなかったのである(第四章第三節)。



目次へ  前ページへ  次ページへ