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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    四 芭蕉の足跡
      『奥の細道』
 元禄二年(一六八九)三月下旬、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を出て曽良とともに奥州・北陸を巡る旅に出発した。美濃の大垣に到着するのは八月二十日頃で、ここで芭蕉は途中で別れた曽良と落ち合い、奥の細道を巡る旅は終了した。ほぼ半年に及ぶ大旅行であった。この旅は蕉風俳諧の展開においては画期的な意味をもつものとされ、その記録は芭蕉自ら推敲を重ね五年もの年月をかけて脱稿し、元禄七年能書家素竜に清書させ『奥の細道』として完成した。
写真190 『奥の細道』

写真190 『奥の細道』

 この素竜清書本はその後敦賀の西村家に伝えられることになった。その間の経過を簡単に追っておくと、同七年五月芭蕉は西国への最後の旅に出発するが、その途上伊賀上野の兄松尾半左衛門のもとにこの本を残した。その五か月後に芭蕉は帰らぬ人となり、本は遺言によって弟子の去来に譲られた。去来没後は母方の久米升顕へ、次いで升顕の娘が小浜の吹田几遊に嫁いだ時に持参したので、引出物として吹田家に伝わることになった。その後、几遊の未亡人から当時敦賀美濃派の中心人物であった白崎琴路(錦渓舎)の手を経て、さらに琴路の親戚である敦賀新道野の西村野鶴の手に渡り現在に至っているのである。



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