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 第四章 都市と交通の発達
   第三節 街道と宿駅
    四 河川交通と渡し
      在方の川舟と河岸場
 積荷をめぐる争論は、川舟業者と陸上輸送業者とのあいだだけで起ったわけではなかった。寛政九年、三国湊の川舟庄屋から福井藩の「御舟方」に対して、近年川舟の積荷が猥りとなり、在々の川舟が多くできて三国川舟持が難儀しているとして、在々の小舟持の取締りを願い出ている。こうした小舟持とはどのような者たちであろうか。
 三国湊の南方約五キロメートル、三里浜の東の坂井郡白方村では、薪などを小舟に積み三国湊で売買していた。文化五年、隣村の米納津村から伝馬舟の新規使用禁止を求める訴えが起されたのに対し、白方村は、慶長年中に拝領したという「御いけす舟」の「川筋一切舟役御免」の書下を根拠に、御用のない平日に舟稼ぎをすることの確認を「御舟方」に求めている。もっともこの願いは認められなかったようで、文化九年には米納津村などとのあいだで、川舟の通行は年貢米を収納する場合と作舟、すなわち農作業に利用する場合に限ることで内済がなされている(白方区有文書 資3)。
 一方、福井藩などの年貢米を収納する米蔵が立ち並ぶ三国湊の上ミ町やその近辺の六町では、九頭竜川筋南西の村々および川西の山手や浜辺からやって来る伝馬舟や小舟を相手とした商売が行われていた。そこでは米穀をはじめ炭・薪や青物・果物などが売り込まれ、諸入用の品や肥物が帰り荷として販売されていた(「大門町記録」)。この六町は川舟持やその水主、舟大工の多く住む地域であったが、農村を対象とする野鍛冶屋も住んでいた(『三国町の民家と町並』)。
 このような在方の小舟の簇生とともに、河岸場も各地に形成されてきた。日野川沿いの水陸交通の拠点である白鬼女でも、上流の府中辺まで小舟がさかのぼって荷物輸送に従事したため、寛政五年には福井藩の「御舟方」が取締りに乗りだした(舟津五丁目区有文書)。しかし同七年、府中近隣の一八か村が、年貢米など領主にかかわる荷物の川舟輸送は、府中からに限り認められたため(石倉家文書)、取締りは徹底できず、文化年中に至って白鬼女は「近年舟積上下之荷物猥ニ相成」といわれるような状態になったという(森藤右衛門家文書 資4)。
写真151 白鬼女の渡(「福井江戸往還図屏風」

写真151 白鬼女の渡(「福井江戸往還図屏風」



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