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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    四 小浜藩の成立
      幕府軍役と普請役
 大坂の陣のような戦闘をともなう軍事動員は、酒井忠勝が若狭に入封して以降にはほとんどみられないが、将軍の上洛への供奉や日光社参供奉などは、一定の軍装を調えての動員であり、また改易された大名の城受取りは形式化されつつあったとはいえ純粋の軍事動員であった。
 酒井氏のこうした軍事動員としては、寛永十一年の家光の上洛への忠勝・忠朝父子の供奉、同十三年・十七年・十九年の家光の、慶安元年(一六四八)・二年の家綱の日光社参供奉があり、慶安元年の日光社参には、槍三六本、鉄砲三〇挺、持筒二挺、弓一三張、武士六一人、足軽七一人、中間二二八人が動員されている(「旧藩秘録」)。
 酒井氏に命じられた城受取役は、元禄十年(一六九七)美作津山城受取りが唯一のものである。この年、美作津山藩主であった森長成が除封となり、松平直明と水野勝種とに美作城受取りがいったん命じられた。しかし水野勝種が病気で辞退したため、四代藩主の酒井忠囿にその役が命じられた(「津山城請取記」)。
 九月三日、その命を伝えた老中奉書が江戸から国元に届き、翌四日から津山に召し連れる侍や役人の決定、貸馬や軍装の手配、軍費の工面など津山行の準備が始められた。
 九月二十一日、先発隊が小浜を出発し、二十九日に忠囿が行列を調えて出発した。このとき幕府は酒井氏に七万石役、騎馬一二〇騎、鉄砲二〇〇挺、弓五〇張、槍一〇〇本、人数一〇五〇人で、この役を勤めるよう指示したが、実際には、騎馬一四〇騎、鉄砲二一〇挺、弓七五張、槍一〇〇本、総人数は二五七〇人にのぼった。
 忠囿の軍勢は、大津・伏見・西宮・兵庫・明石・姫路を通って、十月四日には美作へ入り、六日には押入村に本陣を置いた。十一日早朝、一応の臨戦態勢で津山に入り、その日のうちに城の受取りがなされた。十四日には、城明渡し後の番を命じられた広島浅野氏の家臣に城を引き渡し、その日に津山を発ち、二十二日に小浜には帰着した。
 この動員を賄ったのは、武士だけではなかった。領内に対して乗馬に耐えうる頑丈な馬の調達と、玉箱・矢箱・挾箱を持ったり荷馬のための人足の下調査がなされ、次いで動員人足の費用が町や村に課せられた。その様子の判明する敦賀町では八〇〇〇両が有力町人を中心に割り当てられ、動員された人足には一人につき米一俵、馬一匹に銀一〇〇匁が藩より支給された(「酒井家編年史料稿本」)。
 実際に軍事動員がなされた津山城受取りの場合とは少し異なるが、慶安元年丹波福知山城主の稲葉紀通の改易に当たっては、鉄砲二〇〇挺、弓五〇張、槍五〇本、騎馬一〇〇騎の動員準備が命じられ、馬の手当て、家臣への軍費の貸付け、大筒・石火矢の手配などがなされた(「酒井忠勝書下」)。また寛文六年(一六六六)の丹後宮津の京極高国の改易に当たっては城受取控役が命じられ、実際には兵を動かすことはなかったが軍令を定めるなど、動員の準備がなされた(「御備押定大概」)。 写真49 津山城請取記

写真49 津山城請取記

 酒井氏が課された普請役は、寛永十四年、同十六年、慶安三年(中止)の江戸城普請、承応元年(一六五二)の日光普請、宝永元年(一七〇四)の四谷・市谷・牛込の門・櫓石垣普請があげられる。
 寛永十四年の江戸城本丸中仕切鉄門櫓の普請には二月から八月まで八か月のあいだ一五〇〇人が、寛永十六年の中仕切の石垣普請には三か月の間に一〇〇〇人が動員された。また承応元年の日光大猷院廟の普請には二月から十一月までの一〇か月のあいだ国元から一七〇〇人が動員され、金二万両、銀一〇〇貫目、米八二五俵がすくなくとも費やされた。こうした場合に動員された人々は、家臣の普請役、藩が召し抱えている足軽・中間のほかに、農村から郷足軽・郷中間として一時的に徴発された百姓が多く含まれていた(「酒井忠勝書下」)。



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