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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      狭義の仏法観
 蓮如は継職当初から、本願寺になじまない種々の本尊・絵像類を「川ニナカシ」ていた(「東寺執行日記」寛正六年三月二十三日条)。阿弥陀如来と他の諸神・諸仏・諸菩薩との混在を否定していたからである。この事実は山門側の怒りをかうこととなり、東山大谷破却の直接的原因となった。また「寛正の法難」の最中に、本願寺と高田門徒との間に大きな亀裂が生じた。高田系の「越前国門徒中」が、蓮如らの「無碍光衆」の邪法を退治することはこのうえなく悦ばしいと山門側へ弁明したからである(資2 専修寺文書一号)。
写真226 蓮如画像

写真226 蓮如画像

 蓮如の説く「仏法」とは、王法(政治支配秩序の理念)を支え王法から支えられている仏法ではなく、唯一阿弥陀如来によってのみ保証されるという、いわば狭義の仏法である。従来の正統的仏法観は、鎮護国家や郷土の安穏・五穀豊饒を祈念する王法的仏法観であった。蓮如はこの伝統的な仏法観と訣別し、信心為本を唯一の「仏法」であるとした。そして従来の王法的仏法を真宗的な狭義の仏法の範疇に含めることを拒否し、それを別な次元の王法・世法に属するものと位置づけ、あくまで王法・世法に含まれるものとしての諸神・諸仏の尊重を説いた。この蓮如の主張の正当性は、権力や顕密的神仏から保証されてそうなのではなく、いわば自己完結的に自らの阿弥陀如来の教説によって裏打ちされてそうなのである。この主張は、いわば数世紀にわたって当然のこととみなされてきた一般的な宗教観を否定することに等しいといわざるをえない。
 吉崎へ僧俗が急激に集まり一大社会勢力となるにつれ、現地の大名勢力や既存の諸宗派との摩擦が生じてきた。蓮如は文明五年九月ごろから、大野郡平泉寺や坂井郡豊原寺などの諸宗への誹謗禁止、守護・地頭への軽視の禁止、「仏法」と「王法」の分離と王法の尊重という緊急声明を次つぎと「御文」のうえで表明していく(『蓮如上人遺文』三四・三八・五四・五九など)。しかし阿弥陀如来以外の「諸神・諸仏・諸菩薩を尊重せよ」という条項は、依然として「仏法」の項目からは除かれたままである(『蓮如上人遺文』七九)。これでは、諸神・諸仏・諸菩薩を護持することで自らの正当性を謳い続けてきた既存の諸宗派・諸権力の激しい反発はいっこうに収まらないだろう。なお御文の「掟章」などのなかでたびたび表記される「有限年貢所当等きんとうに沙汰せしむ」べしという発言の意味は、限定的な「先例」は遵守すべきであるが、無限定な「新例」は不当・非理であるとの認識にもとづいた発言と一般に考えられている。



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