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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      下間蓮崇
 下間安芸蓮崇は旧名を心源といい(『蓮如上人遺文』一一)、吉崎滞在期の蓮如側近である。出身地は足羽郡麻生津といわれ、その地は越前の木ノ芽峠以北の地域を二分する境目の「宿」であり、白山を開いた泰澄誕生の地と伝えられ、厚信の越中赤尾の道宗も同地で夢告を体感して蓮如に帰依したとの伝承もある。おそらく越中野尻などとともに、善光寺信仰・熊野信仰などの在地のさまざまな信仰が混在する宗教的な「聖地」だったのだろう。彼は当初、本覚寺に随従し「一流を聴聞」して(「拾塵記」『真宗史料集成』二)、吉崎の茶所で昼夜隙なく学問手習いし、四〇歳ころに「いろは」字を習い、まもなく蓮如の目にとまった。その後は急速に地位を向上させ、蓮如の「取次」となり、朝倉氏とも「知音」の間柄となり、将軍からも法眼に任ぜられ(「天正三年記」『真宗史料集成』二など)、足羽郡北庄の浜に居を構える。
 蓮崇は御文の流布・伝存に大きな功績を残した。門末への下付・読誦用の御文作成は、この蓮崇の進言によるといわれている(「蓮如上人塵拾鈔」『真宗史料集成』二、「蓮淳記」『蓮如上人行実』一五八)。彼はまた御文の集録に最初に取り組み、「蓮崇本」御文を作成した。この冊子は一五通からなり、文明三年七月から同五年九月までの蓮崇書写分一二通(一二通目奥書は蓮如自筆)に、蓮如が自筆で書き添えた端書と最後の二通で構成されている。なかに訂正のしるしと傍記部分もそのまま写した箇所がみられ、各通末尾に書止め文言の「あなかしこ」が付されていないことから、おそらく蓮如の机上にあった原本から写し取ったものと想像される。この蓮崇本は、戦国期末には蓮崇の子孫たる「越前ノ国ヘイシヤ(瓶子屋=池田孫二郎)」の手元にあった(願慶寺文書一号『小浜市史』社寺文書編、珠洲市西村靖治家所蔵「蓮崇本」写本奥書)。
 現在の我々は二百数十通の御文のすべてをみてとれる。しかし仮に蓮崇本のみを見た者はどう思ったことだろうか。各通には大坊主の信心不足や物取り信心への批判と、厚信の在俗門徒の生き生きした姿が集中的に記されている。また諸仏・諸菩薩・諸神への帰依も批判されている。そこには、吉崎滞在初期の教団形成にかける蓮如の息吹のみが収録されている。これこそ蓮崇の心の「原像」であった。この蓮崇本には蓮如の流暢な字体と対照的な几帳面で癖のない片仮名、漢字に付された訓み、数文字ごとの間隔がみられる。確かに蓮崇はこれを何度も自らの声で読誦したことだろう。字体は素直で癖のない筆跡である。ただ、わずかに蓮如的な筆跡に変化しだしたかと思うと、次行ではもう蓮崇自身の字体に戻っている。蓮崇という人物は、自分の字体すなわち自分の意思をもつ人物であった。



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