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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      吉崎参詣伝承
 北陸の人びとは、都から「貴僧」がまた一人やって来た、ともあれ見に行こうかと吉崎見物に詣でた。ところがそこでは、本尊類・教典類が特定の僧侶に独占されることなく不特定多数の人びとの前に開放され、しかもそれら本尊類・教典類を「学習」するのではなく、自身の五感でもって「体感」するよう説いていることを知った。また毎月二度の親鸞忌・前住忌の法会が月例行事として行なわれており、その行事に出仕する者は単なる一時的な参拝者扱いでなく、寺院・道場の宗教行事役を担う基本的構成員(衆)としての身分を与えられ、固定的に位置づけられていることも知った。
 北陸・東海一帯の多数の寺院の「由緒書」には、先祖が吉崎へ行ったことが書き記されている。どの由緒書にも他宗派の場合に多々見受けられる奇瑞による開創伝承などの記載はほとんどなく、もっぱら、蓮如に会って帰依して改宗したという、ほぼ紋切り型の文言が列記されている。それら由緒書に記される「面授」とは吉崎での先祖忌・親忌の法会を自身の目で見たということを、「帰依」とはそれで納得したということを、「改宗」とは今後このやり方で「毎月ノ会合」(『蓮如上人遺文』三三)をやっていこうと決意したことを語っているのだろう。吉崎にまつわる伝承として、文明六年の火災のさいにある僧が自分の腹を切りさいて経典を守ったという「腹篭りの聖教」の言い伝えや(「真宗懐古鈔」では寛永以前の「本向寺記録」を参照したと記す)、旧来の土俗信仰との葛藤・克服を主題とした「嫁威肉附の面」の伝承が伝えられている。毎年四月二十三日から五月二日にかけて京都東本願寺と吉崎との間を蓮如画像が徒歩・人力で巡回する「吉崎御忌」の行事が今も続いており、北陸の人びとの心に「吉崎」が大きな位置を占め続けたことをうかがわせる。



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