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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      文明六年加賀一向一揆
 蓮如滞在期の吉崎の状況は、応仁・文明の乱の最中でもあり、越前・加賀の東西両軍の兵馬が再三行き交う緊張に満ちた危険な日々であった(「天正三年記」)。朝倉・甲斐両勢力の戦いは、蓮如が吉崎に居を定めた文明三年七月にも細呂宜郷近辺で行なわれている(『雑事記』同年八月十五日条)。それ以降も、甲斐方は劣勢になると加賀へ逃げ込んだ。加賀国守護の富樫幸千代方が西軍に属していたからである。逆に加賀で東軍に属していた富樫政親方は越前へ牢人し、幸千代方への進攻を狙っていた。同五年七月にも富樫幸千代・甲斐勢と富樫政親・朝倉勢との大合戦が細呂宜近辺でおこっており(『親元日記』同年七月二十三日条、『雑事記』同年八月十五日条)、そのためか蓮如は吉田郡藤島超勝寺辺へ避難した(『蓮如上人遺文』三六)。戦乱の渦のなかにあって、吉崎では防衛上、堀・塀・溝の構築が相ついでなされていった。
 しかし一連の御文のなかには、ほとんどといってよいほど越前・加賀の政治情勢への言及はない。しかも驚くべきことに、このような激戦の合間をぬって多くの人びとが吉崎に群参し続けているのである。大多数の人びとの心のなかに、朝倉・甲斐・富樫勢の戦いはなんら積極的に参画すべきものではないと映っていたのだろう。彼らは政治勢力の一部に加わる途ではなく、蓮如のもとに参じて戦国の世を歩んでいこうとする途を選択したのだろう。坂井郡河口・坪江荘の領主である大乗院の経覚は、文明五年二月ごろのこととして、蓮如からの口添えがあれば代官の入部を拒否する朝倉氏をなんとか説得でき、さらに幾分かの年貢収納も可能となると認識している(『私要鈔』同年二月日条)。蓮如の背後には、彼を支持する在地の無数の人びとの存在があった。蓮如を支えていたのは朝倉氏・甲斐氏・経覚でなく、実にこれら在地の人びとであった。
写真227 「三十六通御文集」(部分)

写真227 「三十六通御文集」(部分)

 甲斐勢と朝倉勢は、翌文明六年正月に南条郡杣山で、閏五月に崩河(九頭竜川)・吉田郡殿下・足羽郡桶田口・波着山などで激突し、甲斐勢は大打撃をこうむった。その結果、北陸政治勢力図のなかで各国守護勢はほぼ東軍方一色となり、西軍派の富樫幸千代勢の孤立が明確となってきた。ただ平泉寺衆は依然甲斐方に与しており(『雑事記』文明六年閏五月十五日・同十二年四月七日条)、古くから加賀で勢力を張っていた高田門徒の勢力も、「加州ノ諸武士(幸千代方)ヲカタラヒ、吉崎山上へ障礙ヲナシ」(「今古独語」)、守護幸千代方へ「数多之一献」すなわち饗応を繰り返しながら、本願寺系門末に対する殺害・放火などの「悪行」を続けていた(福井市浄得寺所蔵「三十六通御文集」)。北陸の各宗教勢力間の情勢も極度に緊迫していったのである。このような状況下、吉崎の多屋衆をはじめとする本願寺勢は富樫政親方(「山内方」)から、もし帰国が叶ったならば味方してくれた本願寺門徒は決して疎略に扱わないとの言質(約束)を得て(「天正三年記」)、加賀の国人層・百姓層・寺社勢力の一部をも糾合し、幸千代勢・高田勢などの「法敵」に対する「ムホン」の土一揆(惣国一揆)をおこした。この文明六年一揆は、本願寺系の門末を主力とし、攻戦的な面を帯びる初めての一向一揆であった。加賀国額田荘(石川県加賀市・小松市)の人びとは、世俗の戦いでなくあくまで「仏法ノ当敵」に対する「聖戦」と認識して一揆に加わっている。蓮如の「仏法」観が人びとを動かしていることを示す貴重な実例である。戦いの結果、高田勢は加賀を追放されて政親が守護に就任する。



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