蓮如滞在期の吉崎の状況は、応仁・文明の乱の最中でもあり、越前・加賀の東西両軍の兵馬が再三行き交う緊張に満ちた危険な日々であった(「天正三年記」)。朝倉・甲斐両勢力の戦いは、蓮如が吉崎に居を定めた文明三年七月にも細呂宜郷近辺で行なわれている(『雑事記』同年八月十五日条)。それ以降も、甲斐方は劣勢になると加賀へ逃げ込んだ。加賀国守護の富樫幸千代方が西軍に属していたからである。逆に加賀で東軍に属していた富樫政親方は越前へ牢人し、幸千代方への進攻を狙っていた。同五年七月にも富樫幸千代・甲斐勢と富樫政親・朝倉勢との大合戦が細呂宜近辺でおこっており(『親元日記』同年七月二十三日条、『雑事記』同年八月十五日条)、そのためか蓮如は吉田郡藤島超勝寺辺へ避難した(『蓮如上人遺文』三六)。戦乱の渦のなかにあって、吉崎では防衛上、堀・塀・溝の構築が相ついでなされていった。
しかし一連の御文のなかには、ほとんどといってよいほど越前・加賀の政治情勢への言及はない。しかも驚くべきことに、このような激戦の合間をぬって多くの人びとが吉崎に群参し続けているのである。大多数の人びとの心のなかに、朝倉・甲斐・富樫勢の戦いはなんら積極的に参画すべきものではないと映っていたのだろう。彼らは政治勢力の一部に加わる途ではなく、蓮如のもとに参じて戦国の世を歩んでいこうとする途を選択したのだろう。坂井郡河口・坪江荘の領主である大乗院の経覚は、文明五年二月ごろのこととして、蓮如からの口添えがあれば代官の入部を拒否する朝倉氏をなんとか説得でき、さらに幾分かの年貢収納も可能となると認識している(『私要鈔』同年二月日条)。蓮如の背後には、彼を支持する在地の無数の人びとの存在があった。蓮如を支えていたのは朝倉氏・甲斐氏・経覚でなく、実にこれら在地の人びとであった。 |