紫式部は、父の越前守藤原為時とともに、長徳二年(九九六)越前国府に来て、およそ一年間滞在した。その往復の路次や国府在住中の歌が『紫式部集』に記録されている(以下、引用は『新日本古典文学大系』)。
塩津山といふ道のいとしげきを、賎の男のあやしきさまどもして、なほからき道なり
やといふを聞きて
知りぬらむ往き来にならす塩津山世に経る道はからきものぞと
暦に初雪ふるとかきたる日、めにちかき日野のたけといふ山の雪いと深う見やらる
れば
ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松に今日やまがへる
降り積みていとむつかしき雪を掻き捨てて、山のやうにしなしたるに、人人登りて、
なほこれ出でてみたまへといへば
ふる里に帰るの山のそれならば心やゆくとゆきも見てまし
都のかたへとて、かへる山越えけるに、呼坂といふなるところのわりなき懸け路に、
輿もかきわづらふを、恐ろしとおもふに、猿の木の葉の中よりいと多く出できたれば
猿もなほをちかた人の声かはせわれ越しわぶるたこの呼坂
第三首の詞書を、庭に降り積んだ雪を集めて雪の山を作ったとする説があるが、むしろ屋根雪を下ろしてできた雪の山と解したほうが自然であろう。第二・三首とも、式部は越の気候や風物に好意的ではなく、帰京の気持ちのみ募っていたようである。また、第四首の「たこのよびさか」の所在地については諸説があるが、帰京の途次「かへる山」を越えてからであるから、おそらくは前述の山中峠あたりが候補地となるであろう。 |