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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    二 『万葉集』と歌謡
      中臣宅守と狭野茅上娘子
 中臣宅守と女嬬狭野茅(弟)上娘子の贈答歌六三首は『万葉集』一五に収められ、古来より名歌として喧伝された歌が少なくない。しかし、この中臣宅守が越前味真野(武生市)に配流された事情や年月日については、史料には明確に記されていない。一方、赦免についても詳細はなお判明していないが、『続日本紀』天平十二年六月十五日条に宅守が大赦の選に洩れたことを記しており、天平宝字七年(七六三)には従五位下に叙せられているから、その間に赦免されたことを知りうるのみである。
 巻一五の目録には、「中臣朝臣宅守、蔵部の女嬬狭野の茅上の娘子を娶し時、勅して流罪に断じて、越前の国に配しき。ここに夫婦、別れ易く会ひ難さを相嘆き、各慟びの情を陳べて贈り答へる歌六十三首」とあり、宅守が茅上娘子を娶ったこと自体が罪にあたったような書きぶりである。しかしそのあとに「夫婦」とあるというところをみれば、両者の婚姻は公認されたようでもあり、やや曖昧である。そして、この歌群の冒頭には、娘子の別れに臨んで作った歌四首が置かれている。そのうちの一首に、
  君が行く道のながてを繰り畳ね焼きほろぼさむ天の火もがも
とあり、とくにこの歌は恋情、火と燃える絶唱として知られる。次に宅守の配所である味真野に赴く道中の歌四首のなかには、
  畏みと告らずありしをみ越路の手向に立ちて妹が名告りつ
という一首がある。「み越路の手向」の場所は、愛発山と推定されている。畏んで告知せずにいた妹の名(それゆえに流罪になったからであろうか)を、越路の入口に立って高らかに誦したという。
 この宅守が配流地である越前から、狭野茅上娘子に贈った歌のなかに、
  過所無しに関飛び越ゆる霍公鳥あまた我子にも止まず通はむ
という一首がある。「関」はいうまでもなく愛発関、「過所」とは通行手形のことであり、それがなければ通過できなかったことがわかる。自由に関を飛び越える「霍公鳥」を羨んで詠んだ宅守の歌である。一方、娘子の答歌のなかには、
  あぢま野に宿れる君が帰り来む時の迎へを何時とか待たむ
  帰りける人来れりといひしかば殆と死にき君かと思ひて
という二首がある。前述の天平十二年の大赦により、流罪の人が多く帰京したときの期待と、そのあとの失望の大きさを詠んだものである。なお、宅守がどれだけの期間を味真野に過したかは明らかではないが、おそらくは短い年月ではなかったろう。だが配流の後半期の歌は残っていない。



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