九〇七年に唐が滅亡したのち、五代十国の争乱の時代を経て、九六〇年に宋朝を興した趙匡胤によって、九七九年に中国は再統一される。社会の混乱が治まると、農業・手工業などの飛躍的な社会経済の発展を背景に、宋の商人が日本・高麗など東アジアのみならず東南アジアにおいても活発な活動を続けるようになった。
とくに北方異民族との戦争状態が続いたことにより、宋の政府は財政難に陥ったため、海外貿易を奨励した。そして、貿易を管理するために、市舶司を杭州・明州・泉州・広州に置いて関税を徴収したり、貿易品の専売を行ったりして莫大な収入をあげた。宋船は東アジアおよび東南アジアの国ぐにと盛んに交易したが、日本へは北九州を中心に来航した。当時、日本側の貿易の窓口は原則的には大宰府であった。しかし、貿易をめぐって大宰府の官人(府官)とトラブルが発生したことや平安京に遠いこともあり、しだいに平安京に近い若狭・越前国にも宋船が入港するようになって、日宋貿易は地域的に拡大する。
一方、朝鮮半島では九世紀末以降、地方の土豪たちの反乱が相次ぎ、さまざまな武装勢力が各地に割拠し、新羅の中央集権的な統制力は急激に失われていった。そのなかから、北部の旧高句麗領を中心に弓裔が摩震を建て、西南部の旧百済領を中心に甄萱が後百済王となり、朝鮮半島は三国が鼎立して「後三国時代」とよばれる状況になる。そののち、弓裔の部将の王建が九一八年に弓裔を倒して高麗を建国した。 |