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 第六章 若越中世社会の形成
   第四節 北陸道の水陸交通
     三 武者往来の道
      『義経記』の道
 源義経は院宣を奉じて義仲を討ち、また、平氏一族を滅亡させるなどの功績から、後白河上皇の信任を得たのであった。しかし、しだいに兄頼朝と不和となった義経は、奥州への逃避行をはかることになるが、このことは『義経記』にくわしく記されている。軍記物語の形態をとるこの『義経記』の成立は、室町時代といわれているから、ここに登場する地名は十四〜十五世紀のものかもしれないが、この時代の道も古代の道を踏襲していたであろうから、十分参考になるものと考えられる。
 義経一行は、文治二年(一一八六)春二月二日に京を発ち、粟田口、松坂、逢坂の関を経て大津の浦に着く。大津の豪商の計らいで湖上を船で海津の浦に無事着くことができた。荒乳山は人跡もまれで難所が多く、老木は立ち枯れ、岩石はそそり立ち、岩角は鋭く木の根は絶えず足をうばったとあるから、なるべく人目を避ける道を選んで通ったものと思われる。かつての愛発関を過ぎて敦賀へ向かう一行に井上左衛門の下僕で平三郎というものが近付き、「この道の先には、君(義経)を待ち構えている者どもが大勢おります。どうかここからお戻りになって、あらためてこの山の峠から東の方へ向かわれ、能美越えの道をとって燧城から、越前の国府の方へ出られるとよろしかろうと存じます」と一行を欺いたのである。これを見破った弁慶は平三郎の首を刎ね、雪のなかへ踏み込んで敦賀へ向かった。平三郎が教えた道とは、笙ノ川をさかのぼって刀根・杉箸・池ノ河内、国境を越えて近江の中河内、栃ノ木峠から今庄に出るルートであったと考えられる。
 荒乳山の北のふもとの近くの「三の口」(道口)は、若狭国と能美山へ行く三叉路で交通の要衝であったから、ここには関を造って待ち構えていた。関守の兵に囲まれた義経一行は弁慶の機転で難を逃れる。敦賀の港まで下って、気比菩薩の前で夜どおし祈りを捧げたのち、出羽国へ行く船を探したが、まだ二月の初めであったので、日本海は風が強く出羽通いの船は見つからなかった。やむをえずその夜を明かしたのち、木ノ芽峠を越え、越前の国府に到着した。国府では三日留まっている。
 そののち、義経の希望で平泉寺へ立ち寄っている。国府から平泉寺へはどの道をとったのであろうか。国府から阿味駅、戸の口坂、足羽川に沿って大野へ出、九頭竜川に沿って下り平泉寺へ行くルート、または、阿味駅から谷添いに池田へ行き、斉明が平泉寺から一〇〇〇余騎を率いて燧城へ駆けつけた逆ルートを部分的には通ったのかもしれない。平泉寺を出発したあと、菅生天神(石川県加賀市)を拝み、金津を経て、篠原(石川県加賀市)に宿泊している。こうして義経一行は、越前を通ってさらに北上を続け、奥州に逃げのびたのである。
 以上のように、甲冑に身を固めた大勢の騎馬武者や義経一行は、平安時代末の源平合戦の一舞台となった北陸道をあわただしく往来したのである。とくに平安時代の後期には、武力を背景とした武士の主張は次第に強くなり、多くの土地と人とを支配するようになった。地方の武士は一所懸命の土地を守るために中央の有力な武士の棟梁につながることを望み、武士の棟梁もまた地方武士を傘下に組み込むことによって中央での発言力を強めて一族の安泰を図る。土地を媒介とした主従関係が成立し、武士による中央と地方、地方と地方との往来が盛んとなる。物の生産量が増加し交易が盛んとなれば、人と物の移動のために古代の水陸交通路は整備され、また新しい道の開発と交通手段の確保が必要となってくるのである。



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