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監修のことば
 『福井県史 通史編1 原始・古代』は通史編全六巻の第一冊である。その冒頭には通史編全体の理解を助けるため、「通史編序説」を置いた。そのうえで、本巻は原始時代より平安時代末ごろまでを叙述する。この間、日本史の動向のうえに深長な意味をもち、その堆移に対して顕著な役割をも占めたと思われる、本巻の特色ある事項のいくつかを試みに取り上げてみる。
 代表的な縄文遺跡として鳥浜貝塚は著名である。昭和三十七年以来四半世紀におよぶ発掘調査により縄文時代の生業・文化をよく明らかにした。古墳において、畿内にみられる前方後円(方)墳の顕著な出現は、九頭竜川が福井平野に流れ出る両岸の松岡・丸岡両地域の山上にみられるが、その規模などより広域首長墳とも推測される。
 さて継体天皇の出自、その成長および中央進出について、越前との関係は、本県として関心の深いところであるが、文献史学と考古学の両面より子細に考論を進めている。七世紀末ごろより若越ともに律令制のもとに組み入れられ、越前国はコシから分立されたようである。郡里(郷)制の成立、また国衙財政や調庸などを、税帳類などの文書に加えて、近年発見された多数の木簡によって検討される。なお、坂井・足羽・丹生三郡を主とする条里制の復原は、ほかの地域ではあまり類をみないところである。
 東大寺領荘園は坂井・足羽両郡を中心に占定が進められ、現地豪族の寄進や墾田買得によって拡大された。初期荘園の一典型としてこれまでも多くの研究がなされた。初期荘園の成立と構成・経営の問題を、本巻では桑原荘と鯖田国富荘・道守荘を対比して分析考査した。また東大寺領荘園の衰退を領有主体と農民のありかたの両面より論じた。
 越前は越の道のくちで、京畿と北陸・北国を結ぶ接点である。また若越は日本海を通ずる海道の要地にあたる。六世紀以釆高句麗・新羅さらに勧海の使節来航などがあり、文化の輸入や貿易の地ともなった。十世紀末より宋船の来渡がおこり、若越への来航がはじまったが、十一世紀末にはその数も多くなり、敦賀津を中心に宋人の滞留活動や交易が盛んとなっている。
 十一世紀半ばごろより国家の地方支配が中世的な仕法へと変化するが、同世紀後半ごろより土地開発に努めた人びとの中から土地・住民に対して支配力を強めた在地の領主層が生まれてくる。さて越前では藤原利仁の後裔と称する疋田系斎藤氏と河合系斎藤氏が、越前平野の南北に呼応した形で優勢な在地領主として成長した。
 七、八世紀に所在したと思われる寺院遺跡も、近年若越各地にて発掘調査されている。泰澄と白山信仰は本県として強く心を寄せられる問題であり、泰澄の伝記、神仏習合と白山信仰、平安初期の平泉寺など三馬場の成立など、精密な検討を加えられる。
 右は本巻収録のなかより気づくままに若干の事項を取り上げたままである。監修者の通史編全巻に対する序説は別として、本巻は一九人の担当者が討論会議を重ねて調整し構成して完成された。近来いよいよ盛んな考古学的発掘の調査報告、多彩な新知見にもとづく諸資料の提示、これらを丹念に駆使し、また原始・古代に関する諸地域・各分野の新研究の成果をよくぶまえて、本巻は成されている。
 擱筆するにあたり、編集・執筆を担当された諸氏に厚く敬意を表し、資料の採集・提供に援助・協力を賜わった各位に深く感謝を捧げるしだいである。
  平成五年三月
    小葉田淳



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