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通史編序説
  宗教と文化
    四 文化の諸相
      朝倉・武田氏の文化
 一乗谷には連歌師宗祇が文明十一年(一四七九)に来遊したのをはじめ、その門下の宗長もしばしば訪れた。儒学者清原宣賢も朝倉氏の招聘で来訪し、天文十一年(一五四二)には『日本書紀抄』を講じており、その後も再三訪れて、天文十九年一乗谷で客死した。谷野一栢も天文元年招聘されて、医書を出版している。朝倉氏は孝景英林から義景にいたる歴代、学者・文人および学僧らを招いて、京の文化の摂取に熱心であった。
 一乗谷の遺跡をみるに、計画的に配置された幅広い街路、街路に面して重臣の屋敷や武家屋敷・町屋・寺院の跡が発掘され、茶器・花器、将棋の駒、医書の断簡、柿経や卒塔婆・石仏など、遊芸・学術・宗教の隆盛をしのばせる遺物、多量の内外の陶磁器や笏谷石製の日常生活用品、数珠や火縄銃関連遺物など職人の存在を示すものなど出土して、一乗谷における生活の豊かさと文化的水準の高きをしのばせるものがある。
 武田氏も代々歌道にも通じ好学で、京の文化に深く心を寄せた。三条西実隆・飛鳥井栄雅・宗祇らと和歌・連歌を通じて交流があった。先に述べた清原宣賢も享禄五年(一五三二)小浜にきて栖雲寺武田第において孟子を講じている。



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