Fukui Prefectural Archives
コラム#ふくいの記憶に出会う
江戸時代の古文書には贈答の記録が意外に多く残されています。お菓子類も贈答の品として資料によく登場します。
和菓子の「越乃雪(越の雪)」は白雪糕(はくせつこう)系統の干菓子で(1)
、銘をもつ由緒あるお菓子、いわゆる「銘菓」です。新潟県長岡市(越後長岡)の株式会社越乃雪本舗大和屋が製造しており、日本三大菓子の一つに数えられています(2)。
同店ホームページによると、「越乃雪」はもち米の寒晒粉と和三盆糖を原料にしたものです(写真1)。
写真1 越の雪(株式会社越乃雪本舗大和屋、長岡市)
方形の小ぶりで清楚なたたずまいの菓子で、口どけよく和三盆の上品な甘みが余韻として残り、なるほど「越の雪」とは言い得て妙と感じました。
同店ホームページは同店の沿革とともに、「越の雪」銘の由来を次のように説明しています(3)。
「安永7年(1778年)、長岡藩9代藩主、牧野忠精公が病に伏された時、近臣が憂い、大和屋庄左衛門(大和屋庄七の祖)に相談しました。庄左衛門はこれを受け、寒晒粉に甘みを加えて調理した菓子を作り、献上いたしましたところ、忠精公の食欲が進み、ほどなく病がなおられました。忠精公はたいそう喜ばれ、庄左衛門を召され、『実に天下に比類なき銘菓なり。吾一人の賞味は勿体なし。之を当国の名産として売り拡むべし。』と、この菓子に『越乃雪』の名を賜りました。」
この「越乃雪」および「越の雪」は商標登録されており(商標登録番号第428378号、第1767308号)、長岡市の越乃雪本舗大和屋以外は菓子類にその商標を使用できません(4)。
幕末の松平文庫「御側向頭取御用日記(以下、御用日記と略)」(5)は、福井藩の御側向頭取すなわち松平慶永(春嶽)の側近が慶永の動静を記録した資料で、幕末から明治初期のものが残されています。この資料には慶永周辺の贈答の記録が残されていますが、興味深いことに同名の「越の雪」が慶永や諸大名間および福井藩周辺の贈答に使われている事例が散見されます。
ここでまず、これは越後長岡大和屋の「越の雪」と同じようなお菓子なのか、それとも違うものなのかという疑問が生じます。
この問題を考えるために、幕末の慶応年間ごろに「越の雪」等が授受された場面をまとめたのが表です。
表 松平文庫「御用日記」にみえる「越の雪」など(PDF:125KB)
表のうち、写真2のように「越ノ雪 菓子一箱」「御菓子 越の雪 一箱」などと、越の雪に「御菓子」と付されているものは、その通りお菓子の「越の雪」を意味しているものと考えられます。
写真2 「御用日記」にみえる菓子の「越の雪」(慶応元年7月30日条)
江戸時代の贈答は、土産つまりその土地の産物を贈るのが基本なので、これらの「越の雪」は越前でつくられたものと考えられます。実際に「御用日記」には、「御国産 越ノ雪 御菓子」と、わざわざ越前産であることを記したものもあります(慶応3年(1867)5月21日条)。ただこの表現は、越前産でない「越の雪」、すなわち越後長岡産の「越の雪」を明らかに意識したからこそ用いた表現かもしれません。
さて松平文庫「御用日記」には、「御茶 越の雪 一斤」などと、「越の雪」に「御茶」と注記されているものが多くみられます。
重量を示す単位の「斤」は、茶の量目の単位として使われることが多いので、このように「御茶」と注記され「斤」の単位表記のあるものは、ほぼ確実に「越の雪」の銘の茶を指していると考えられます(写真3)(6)。また、中にはわざわざ「御国製」と記されたものがあり、これらは越前産の銘茶ということになります。
写真3 「御用日記」にみえる茶の「越の雪」(慶応2年3月9日条)
表が示すように、「越の雪」という銘に「御菓子」もしくは「御茶」の語が付されるケースが多いということは、とりもなおさず「越の雪」の銘を持つお菓子もお茶も両方が存在したことを表しています。側近である御側向頭取が筆記する「御用日記」という記録の性格上、贈答品がお菓子なのかお茶なのか区別する必要があったため、このような表記がなされたものと考えられます。
ところで、明治5年(1872)の福井博覧会(後述)には「金津屋佐助」が13品のお茶を、また「金津屋佐久助」が信楽焼・瀬戸焼・朝鮮焼の茶壷を出品しています(7)。その後、明治10年に東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会には、福井佐久良上町の「樹下左久助」が越前産のお茶「越の雪」を出品しています(8)。
現在、福井の茶舗の「お茶の金津屋」は樹下左久助の子孫にあたる樹下恵太氏が経営されていることから、「金津屋佐助」「金津屋佐久助」「樹下左久助」は同一と考えられます。つまり、本コラムで幕末から明治にかけて確認されるお茶「越の雪」は、金津屋の銘茶であったということになります。なお、金津屋の商号(屋号)がいつから使われたか、越前産のお茶「越の雪」がいつ登場し、いつまで存在したかはともに未詳です。
お茶「越の雪」の産地について考えてみると、「御用日記」元治元年9月7日条(表参照)には、藩士岡田喜八郎が「十楽村産」の「越の雪 二袋」を慶永に献上したとあり、加越台地上の柿ケ原十楽村が産地(または産地の一つ)だったようです(9)。
次に、お菓子の「越の雪」はどのようなお菓子だったのか、前述の松平文庫「御側向頭取御用日記」の記述をもとに推定してみます。
この資料にみえるお菓子の「越の雪」は、「越ノ雪御菓子一箱」などと記録されているので、通常は箱入りのようです。また、元治元年(1864)5月28日の記事(将軍へ内献、六月朔日の氷室祝か)や慶応3年2月27日の記事(御簾中様勇姫から慶永へ進物)には紅白の越の雪がみえます。「越の雪」の名称が示す通り色は白色を基本としたようですが、紅色のものもあったようです(写真4)。
写真4 「御用日記」にみえる菓子「紅白越の雪」と「越の氷」(元治元年5月28日条)
次に、菓子の種類として、生菓子か干菓子かという点についてみてみます。
「御用日記」慶応3年8月2日条に、在京中の慶永が興正寺(京都の脇門跡寺院)の御門主へ御茶とともに「越の雪一箱」を贈ったことがみえています。この事象は別の資料すなわち慶永が記録した「京都日記」(福井市立郷土歴史博物館所蔵春嶽公記念文庫)同日記では、「興正寺へ干菓子一箱さし上」と記録されているので、お菓子の「越の雪」は干菓子であったことがわかります。
実際、在京中の慶永は国元の越前から藩士などによりもたらされた「越の雪」を、数日後にさらに在京中の大名や公家等への贈答に用いたとみられるケースがあり(慶応3年5月など)、日持ちがする干菓子であればこれも十分可能だったと考えられます。
お菓子「越の雪」の形状や大きさを示す記事は今のところありません。ただ、慶応2年2月26日条には、慶永は松平出羽守(出雲松江藩主松平定安)に「越ノ雪 一箱 但数百入」を贈ったとあり、この「数百入」いう但し書きが注意されます。
この記事は、そのまま読めばこのときの進物用の箱一箱に数百の越の雪が入っていたことを示しています。数百というのは数の表現としては大雑把で正確な数を示しませんが、この記事から1つの最小単位の「越の雪」はそれほど大きくなく、小さいものであったと推測されます。
表からは、「越の氷」というお菓子が慶永から将軍に献上され(元治元年5月28日記、写真4)、また「越の氷」が藩士高田孫左衛門や城下の松平家菩提寺の孝顕寺から慶永へ献上されていることがわかります(慶応元年9月29日記、慶応4年4月17日記)。
さて旧暦六月朔日の「氷の朔日(ついたち)」の行事として、江戸の年中行事を記録した嘉永4年(1851)刊「東都遊覧年中行事」は、「賜氷の節御祝儀、加州公より氷献上」とし、金沢藩前田家から徳川将軍家へ氷が献上される行事を記しています。現在でもこれにちなんで6月30日に金沢市で氷室開きが行われています。
一方、文化年間に成立した越前の地誌「越前国古今名蹟考六 足羽郡下」(松平文庫)は、福井城下の年中行事の記録「歳中謾録」を引用し、「六月朔日、(中略)今日石谷(笏谷)の石間歩(マブ、坑道)より氷を取寄て祝う人も有、惣別氷餅を以氷にかへて祝うなり、仍て氷の朔日といふ」と記しています。笏谷石の坑道の氷室開きをして保存した氷を用いるか、またはその代わりの「氷餅」を用いて江戸時代の福井では氷室祝いをしたことがうかがえます。
氷室祝いの際に氷の代用として用いられた「氷餅」なるものが実際にはどのようなものであったかは資料からはわかりません(10)。献上品としてみえるお菓子「越の氷」や次節でみるお菓子「割氷」は、その名称からみて氷室祝いの風習と関係があるお菓子かと考えられますが、これについては今後調べてみる必要があります(11)。
明治4年10月および翌5年3月の2回開催された京都博覧会、明治5年3月の湯島聖堂博覧会(文部省博物局主催)などに続き、同5年6月11日から6月20日の10日間、福井東本願寺掛所(本瑞寺)において福井博覧会が開催されました(写真5)(12)。
明治5年8月に発行された「撮要新聞 第一号」(13)によれば、会期中の来場人数は61,396人にのぼり、「頗ル(すこぶる)盛会」であったといいます。この福井博覧会に出品された文物がわかりますが、博覧会第四号の出品物のなかに、お菓子の「越ノ雪」がありました(写真6)(14)。
写真6 博覧会出品一覧(部分)
ここで注目すべき点は、少なくとも2点あります。まず、出品者として「菓子忠」とあり、これはお菓子「越ノ雪」の製造者すなわち菓子商とみられます。
次に、「菓子忠」が出品しているお菓子として、「扇形羽二重昆布」「割氷(わりごおり)」などが見える点です。
前掲の表にもお菓子の「羽二重昆布」「割氷」がみえますが、これらは写真6にみえる博覧会の出品物と合致するので、「菓子忠」もしくはその関係者が製造したものと考えてよさそうです(15)。
明治5年の福井博覧会に出品された物品は、この博覧会の趣意書からもうかがわれるように足羽県下の物産、すなわち足羽県域の越前北部の坂井郡・足羽郡・吉田郡・大野郡・丹生郡から出品されたもので、武生や敦賀を含みません。この点から、菓子忠は福井に所在した可能性が高いと考えます。
出品者の「菓子忠」については、その後継となる菓子商も含め他の資料では今のところ確認できず、当時の所在地や創業年などは未詳です。なお、明治20年刊「福井商工便覧」(福井県立歴史博物館所蔵)(16)には、和洋砂糖・石炭油・生晒蝋を商う内山常吉という人物が経営する「菓子常」という店舗が絵入りで掲載されていますが、「菓子忠」との関係の有無は不明です。
さらに調べてみると、越後長岡大和屋のお菓子「越の雪」、幕末の松平文庫「御側向頭取御用日記」にみえるお菓子「越の雪」(菓子忠の「越の雪」と同じか同系統の菓子と推定)以外にも、「越の雪」と称するお菓子等が複数存在したことがわかります。主なものは次の通りです(主にウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」閲覧による簡易調査結果)。
上記1~5は越前から越後にかけての北陸地方、つまり古代における「越の国」で製造されたものですが、次のように必ずしもそうでないものもあります。
明治17年の「商標条例」制定以前には商標制度は事実上存在せず、自由に銘を使うことは可能であったものと思われますが、明治22年刊の川崎源太郎著『北越商工便覧』によれば越後長岡の大和屋(岸庄七)は明治18年に商標を登録し、「贋品」と区別するため商品に印紙を貼るなどの類似品対策に乗り出しています(写真7)(19)。
写真7 『北越商工便覧』(明治22年刊)にみえる越乃雪本舗大和屋
その後、先願主義を原則としながらも併存登録を認めた明治42年の条例改正など数度の改正を経て、昭和34年の全部改正による現行商標法の施行など商標制度が整備されていくなかで、上記1~7のような「越の雪」は、名称を変えるか、市場からの退場を余儀なくされていったものと考えられます。これらはいったいどのようなお菓子だったか詳細は不明です。
今でこそ「越の雪」といえば、長岡のお菓子「越の雪」を思い浮かべますが、資料を紐解くと、幕末から明治期にかけて福井のお菓子「越の雪」のほか、北陸だけでなくそれ以外の地域にもお菓子「越の雪」がそれ以後も存在し、一方では幕末から明治にかけての福井には「越の雪」の銘のお茶まであったことがわかります。このように「越の雪」の名称がいろんな商品に付けられていたことは、とても興味深いことと思います。
お菓子の「越の雪」の名称は、その形状と食味から白くさらさらととける北陸の雪を彷彿とさせるため、北陸のみならず、北陸以外でも白雪糕系統や落雁系統の干菓子をさすときに使われる一般名詞として商標制度確立以前は広く通用していたとみられます。
また一方では、「越の雪」の語は、自然物としての雪のイメージとは異なる茶の名称でもあったように、少なくとも福井においては北陸地方の自然・風物を表す一種の佳名としても用いられたということになるでしょう。
「越の雪」の語は、かつては福井の贈答の場面ではよく使われ、知られた語だったのかもしれません。
宇佐美 雅樹(2023年3月16日作成)
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