享保期における間部氏の二度にわたる転封は、藩財政に深刻な影響を与えた。さらに村上領は五万石に加えて別に新田出高二万二七九一石余があり、実高は七万石を超えていたことになるが、鯖江に与えられた新領知は表高を超える新田出高はなく、しかも「薄免」の地における正味五万石のみであった。「従江戸到来御用状」(間部家文書)などから両地の状況をまとめると表3のようになる。領内人口については、同史料に「御高ニ不相応不足ニ候」と記している。領内人口が知行高に比べて少ないことは、それだけ生産力が低かったことを示している。やや時代が下がるが、同じ安永九年の人口を比べても鯖江領の人口は村上領の四一パーセント程度にすぎない。また両地の俵は同じく一俵が四斗入りであるので、正に「御物成半減」の状況であった。このような知行実高と物成米の減少により、大名の義務である軍役も果たせないのではないかと心配されている。
図3 八石・西角間・西鯖江村の年貢率(1703〜35年)
表3 村上領と鯖江領の状況
このため藩主詮言は「御暮方半減」すなわち支出削減の方策を検討するよう指示し、一族に対する援助の減額、家中に対する上米の実施などが命じられたが、当面の期待は収入増加をはかるための年貢増徴策であった。幕府領では江戸・大坂への廻米経費を考慮して年貢率を低率にしていたため、藩では貞享三年以前の福井藩時代の年貢率を目標に引き上げようとし、村方から福井藩時代の免状を提出させ調査するよう郡奉行・代官に指示した。図2に示した三か村について元禄十六年から享保二十年までの年貢率を一年ごとに表したのが図3である。鯖江藩成立は享保五年であるが、同年の免状は幕府代官から下されており、翌六年からが鯖江藩となる。この年はたまたま不作の年であり、幕府領や近隣諸藩は前年より一分から二分の減免を行ったが、鯖江藩は入国最初の年に免を下げては前例となり、この後の増徴策に支障をきたすと江戸からの督励をうけて平均三分二厘三毛の増免を強行した。八石村では三石五斗余、西鯖江村では六石五斗余の物成米が増徴されている。図3に示されるように、享保期に入り年貢増徴傾向が続いていたこともあって、領民の態度は不穏なものとなった。十一月には農民が大挙して鯖江役所へ強訴に及び、さらに江戸への直訴も計画されるという情勢をまねいた。この事件の結末については、翌享保七年分の「従江戸到来御用状」が欠本となっているため定かではないが、入封直後の間部氏鯖江藩はまことに前途多難であったといえよう。間部氏の度重なる転封による支出増大と実知行高の減少は、不安定な領国支配の始まりとなって表れた。