2022年(令和4)11月20日(日)のゆるっトークは「一乗谷ゆかりの刀剣」というテーマで、ゆるっとお話させていただきました。今回はその中から、朝倉氏にゆかりの深い「籠手切正宗」についてご紹介します。
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/F-94?locale=ja)
鎌倉時代の刀工相州正宗作の太刀です。朝倉氏では相州貞宗(正宗の子もしくは弟子)の作品とされていました。1573年(天正1)に朝倉氏が滅亡すると、織田信長の手に渡り、信長から家臣の大津伝十郎へ、その後前田利常が入手し、加賀前田氏に伝えられました。1882年(明治15)、前田氏から宮内省に献上され、現在は東京国立博物館で保管されています。
『日本刀大百科事典』では「籠手切」という名前の由来が3つほど挙げられています。
このうち、2は「陰徳太平記」、3は「朝倉宗滴話記」が根拠となる資料として挙げられています。
毛利氏の一族吉川氏の家臣香川正矩と次男の景継(堯真・宣阿)が編さんした軍記物です。『太平記』にならい、戦国~江戸時代初期にかけて毛利氏の活躍を描いています。
「陰徳太平記」によれば、1527年(大永7)10月29日、畠山勢が京都の川勝寺口(せんしょうじぐち)へ押し寄せ、これを朝倉氏の軍勢が撃退したといいます。
しかし、この10月29日の戦いは他の資料で確認できず、内容から同年11月19日の西院の戦いのことと思われます。また、朝倉孝景(朝倉義景の父、英林孝景とは別人)が川勝寺口で戦ったことになっていますが、これは誤りで、この頃孝景は朝倉教景(宗滴)らを京都に派遣しています。
これらを踏まえると、「陰徳太平記」の記述には疑問があります。さらに「籠手切正宗」についての記述も見当たりません。
初代朝倉孝景の子である朝倉教景(宗滴)の教訓的雑話を筆録したものです。作者は荻生八郎右衛門尉宗俊です。成立は宗滴が死去した1555年(弘治1)以降、宗俊が死去した70年(元亀1)以前と考えられています。
1527年(大永7)11月19日、朝倉氏の軍勢は西院の泉乗寺口(川勝寺口)で畠山勢と戦い、これを撃退しました。「朝倉宗滴話記」によれば、教景は敵のいない北方の要害を堅固にするよう進言し、周囲はそれを不思議に思いました。その後、堅固にした北方の要害に敵が攻めてきたので、教景の軍略に天下の諸侍が驚いたといいます。
この戦いは朝倉氏と加賀の一向一揆の戦いを記した「加越闘諍記」などいくつかの資料で確認することができます。しかし、「籠手切正宗」についての記述は見当たりません。
「隠徳太平記」と「朝倉宗滴話記」には「籠手切正宗」についての記述は見当たりませんでした。そこで、1の説の根拠となる資料を探したところ、「一乗録」という資料に「籠手切正宗」についての記述がありました。
「一乗録」は朝倉氏の歴史、朝倉氏の一族や家臣の列伝などを記した資料です。成立は江戸時代中期とされますが、作者は不明です。他の朝倉氏の軍記物と比較し、一族や家臣の列伝を細かく記している点が注目されています。
「一乗録 一・二」 T0001-00099 福井県立図書館貴重図書
「一乗録」によれば、1355年(文和4)2月15日、京都の東寺で朝倉高景・氏景父子は北朝方(室町幕府方)として南朝方と戦い、功績をあげました。しかし、南北朝の動乱を描いた軍記物『太平記』では朝倉氏は南朝方に加わっています。そのため、朝倉氏は北朝方についていた説、南朝方についていた説、さらには朝倉氏の中で北朝方と南朝方に分かれていたという説があります。
この戦いで当時17歳だった氏景は敵の籠手を斬り、それにより太刀に「籠手切」と銘を刻んだといいます。なお、資料中では「籠手」が「韝(ゆごて、弓を射るときに使う籠手)」、「正宗」ではなく「貞宗」となっています。
同様の記述は江戸幕府により編さんされた室町幕府の歴史書「後鑑」にもあります。同資料は江戸時代の成立ですが信頼性は高いとされているので、「一乗録」の記述は信頼してよいのかもしれません。
「籠手切正宗」の名前の由来について、『日本刀大百科事典』を元に根拠となる資料を調査してみました。同書で挙げられていた「陰徳太平記」と「朝倉宗滴話記」には「籠手切正宗」についての記述はなく、「一乗録」に「籠手切正宗」についての記述を確認できました。
同書は刀剣について調べるのに便利ですが、利用する際は出典に記載の資料の内容を確認する必要がありそうです。
三好 康太(2022年(令和4)12月22日作成)