Fukui Prefectural Archives
Matsudaira Bunko Theme Exhibition 41
近年、全国的に城が大きなブームとなっています。このブームの背景の一つが、城を題材としたゲームです。
このゲームには、一乗谷城や福井城、丸岡城といった福井に所在する城もキャラクターとして登場しています。その中でも人気があるものの一つが一乗谷城です。
本展示では一乗谷朝倉氏遺跡博物館のオープンに合わせ、人気ゲーム「御城プロジェクト:RE」とコラボし、松平文庫の資料を中心に朝倉氏や一乗谷城にまつわる資料を紹介します。
2022年10月28日(金)~2022年12月21日(水) ※終了しました。
福井県文書館閲覧室
1748年(寛延1)~81年(安永10)「朝倉始末記 巻一~一一」
A0143-M221240000 松平文庫(当館保管)
朝倉氏の歴史書の一つである『朝倉始末記』によれば、1471年(文明3)に初代朝倉孝景が黒丸館から一乗谷に移り、城郭を築いたと記されています。通説では、これが一乗谷城の始まりだと考えられています。この後、一乗谷には家臣の居館や寺院、職人や商人の町屋が計画的に配置された城下町が整備されていきました。
1717年(享保2)「帰雁記」
A0143-21210 松平文庫(当館保管)
越前国内の名所や城跡、古社寺や山川などを記録した「帰雁記」には朝倉義景が曲水の宴で詠んだという歌が掲載されています。1562年(永禄5)、義景は一乗谷を訪れていた連歌師の大覚寺義俊をもてなすため、一乗脇坂尾(安波賀河原)に盛大な曲水の宴を催しました。その宴で「早涼至」の題に義景が詠んだのがこの歌です。
1743年(寛保3)11 月序、86 年(天明6)4 月跋「越藩拾遺録 上」
A0141-00142 坪川家文書(当館蔵)
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1573年(天正1)7月、朝倉義景は近江の浅井長政を救援すべく出陣します。しかし、一族の朝倉景鏡が「所労(病気、疲れ)」を理由に出陣を拒否するなど、状況は思わしくありませんでした。同年8月、義景は刀根坂の戦いで織田信長に大敗し、多くの武将や軍勢を失ってしまいます。その後、義景はわずかな手勢とともに一乗谷へ敗走しました。
年月日未詳「越前国古今名蹟考 六 足羽郡下」
A0143-21215-008 松平文庫(当館保管)
江戸時代に編さんされた越前の地誌「越前国古今名蹟考」には色鮮やかな「一乗城跡図」が描かれています。山頂には城跡のようなものに加え、「カラホリ(空堀)」も描かれています。絵図の左下には一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)のシンボルでもある「唐門」、少し上には「義景墓」「英林塚」があります。
1720年(享保5)「城跡考」
A0143-21211 松平文庫(当館保管)
「城跡考」は1720年(享保5)に福井藩主松平吉邦の命によって、越前国内の古い城跡や館跡を調査したものです。越前国内の古い城跡や館跡を調査したものです。「一乗谷城跡」のところで、初代朝倉孝景(敏景)から義景の5代、そして朝倉氏滅亡後に一乗谷に館をかまえた桂田長俊(前波吉継)の名前が見えます。「一乗谷城」と記述されているのが注目されます。
年月日未詳「朝倉家之拾七ケ条」
A0143-00483 松平文庫(当館保管)
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朝倉氏の家訓「朝倉孝景条々」は様々な写本が伝わりますが、この資料はその一つです。前文によれば、初代朝倉孝景が子孫に書き残したものを子の朝倉教景(宗滴)が語ったものといいます。その中で、越前国内に朝倉の館以外の城郭を構えることを禁じ、一乗谷に家臣を集住させるように説いています。
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