6 若狭・越前の成立(1) |
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(三方評木簡は、奈良県立橿原考古学研究所蔵、その他は奈良国立文化財研究所蔵) | ||||
かつて福井県の地は、若狭と越前という2つの国からなっていました。越前はほぼ嶺北と敦賀市、若狭はそれ以外の嶺南地方です。その成立時期を探ってみましょう。 若狭は若狭国造の名が知られるように、古くからの地名でしたが、『日本書紀』 をみると、その国名としての初見は、675年(天武天皇4)です。そこでは大倭・河内・摂津をはじめ若狭・伊勢など13か国に歌の上手な男女らを貢上せよとの勅が出されています。したがってそれまでに若狭国が成立していたことは確かでしょう。 一方、越前については、642年(皇極天皇1)に近江とならんで「越」の名がみえ、また658年(斉明天皇4)には、越国守阿倍引田臣比羅夫(こしのかみあべのひきだのおみひらふ)が登場します。守は国の長官です。当時はまだ越前は成立しておらず、越国といっていたようです。北陸地方には、越前のほかにも「越」のつく国があります。越中(富山県)・越後(新潟県)です。これら諸国の地全体を元は越とよんでいたのを、のちに分割し、都に近い方から越前・越中・越後と名付けたのです。こうした分割の例はほかにも、備前・備中・備後、肥前・肥後、上野・下野など多くあります。越の名は、その後の天武天皇の時期にもみられます。 ところが692年(持統天皇6)になると、「越前国司、白蛾(しろきひひる)を献れり」と越前の名が現われます。越後は697年(文武天皇1)、越中は702年(大宝2)にそれぞれ初めてみえます。したがって、692年までには越前は成立し、ほかの2国もほぼ同じころに成立したとみてよいでしょう。 |
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■木簡からみる評(こおり)と50戸 | ▲与野評の刻字須恵器 石川県小松市那谷金比羅山窯跡群出土 7世紀中ごろの平瓶(ひらか)に刻まれた文字のうち「与野評」は、越前国 にふくまれていた江沼評のことである。「評」から郡への変化は大宝令の 施行によるものである。 (財)石川県埋蔵文化財センター蔵 |
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7世紀中ごろの孝徳天皇のころに、のちの郡に相当する行政組織が「評」として成立した。 評の下部組織は50戸からなる単位で、それは飛鳥浄御原令で里とよばれるようになったとみられる。それ以前は飛鳥京跡から出土した右端の三形評木簡にあるように50戸という表記が用いられた。 また、こうした古い荷札木簡には、国の記載がなく、評から始まることから、国の成立は評より遅れるという考えがある。 なお三方を三形と表記するのは三形評木簡のみである。 |