年貢の納めどき -誰が?いつ?どこに?-
年貢(税)は、今も昔もわたしたちにとって大きな関心事のひとつです。
が、年貢…と聞いて皆さんが想像するのはどんなシーンでしょうか。悪代官が領民から無慈悲に米を取り立てるような場面でしょうか。
年貢という言葉は、認知度は高いですが、実情はあまり知られていません。
誰がいつどこに納めたのか、どのようなものが納められたのか、など年貢についての素朴な疑問を、福井藩を対象にQ&A形式で紹介します。
会期
2019年8月23日(金)~10月23日(水)※終了しました
松平慶永への年貢指南
1915年(大正4)「福井藩役々勤務雑誌 地」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143‐20693-002
大正時代に鈴木準道が編纂した「福井藩役々勤務雑誌 地」には、松平慶永に家臣が藩の年貢全般について説明した「御収納之次第書」が収録されています。
年貢取立の時期、村・藩で年貢に関係した者、免(年貢率)について、上納についてなど、詳細に記述されています。
百姓は、自身に割り付けられた年貢を庄屋まで納め、庄屋が村を取りまとめ、代官(あるいは地方取の給人)に納めるという流れでした。ただし米については明里・三国・松岡・広瀬などの藩の御蔵(あるいは地方取の給人屋敷)に直接納め、役人からの受取書を庄屋へ納めました。
年貢とは何か?
年月日未詳「天保十二丑年御領分御成箇帳写([量制・預所関係記録]のうち)」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143‐10129
年貢は大きく3種類に分けられます。田畑や屋敷にかけられる本途物成、村高に応じてかけられる高掛物、山野河海の収益やその他の産物にかけられた小物成からなります。
資料は1841年(天保12)における福井藩のそのような年貢の内訳が記載されたものです。取米が本途物成にあたり、口米はその徴収のための手数料です。夫米は高掛物のひとつで、元々は人夫として徴発していたものが、やがて米や銀で納められたものです。石高に応じていたこともあり、百姓にとっては負担の大きいものでした(100石あたり5石)。小物成は諸産物にかけられた雑税の総称で、米や銀のほか現物でも納めました。
「御収納之次第書」には年貢を納める時期について記述があります。6月頃の夏夫銀から始まり、秋夫銀・新穀と続き、その年のうちに年貢の上納を終えるべきとされました。しかし、実際には前年の未納分などもあり、年中間断なく納めている状態でした。
年貢取立の基礎資料(太閤検地帳)
1598年(慶長3)「越前国足羽南郡安部村御検帳」
福山正人家文書(当館蔵)A0006‐00001
越前における太閤検地は、1598年(慶長3)から実施されています。指出(自己申告の検地)とは異なり、縄や竿をもって田畑屋敷など一筆ごとに測量し、所在地・等級・面積・分米と名請人を確定しました。村の分米総計を村高と称し、年貢取立をはじめさまざまな基準とされました。
分米は、面積×斗代(土地一反あたりの生産高)で算出されましたが、越前の農村ではこの斗代が畿内などに比べて高く見積もられていることが特徴です(実際の生産力より高く設定)。
江戸時代、福井藩を含む越前諸藩では領内の惣検地は行われなかったため、引き続き太閤検地が年貢取立の基準となりますが、高い斗代は百姓に負担をかけることになります。
年貢取立の基礎資料(家数人馬改帳)
1820年(文政3)「辰年高家数男女人馬御改帳(18軒75人)」
松田三左衛門家文書(当館蔵)A0169‐00531
デジタルアーカイブは
こちら
これは丹生郡南菅生浦(現福井市)の資料で、代官が交代した時に、村の持高・家数・人馬数および免(年貢率)を書き上げ、代官所へ提出した帳面です。提出以前の5年間の年貢率とともに村の農民構成を知りえるものであり、村方の実情把握に利用されたことがうかがえます。
福井藩領知の村々(貞享3年)
1686年(貞享3)「郷村高付帳」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143‐20031
郷村高付帳は、領知状の発給に先立ち、その準備作業の段階で各藩において作成されたものです。郡別に村名と村高を記されるとともに、1686年(貞享3)のものについては末尾に福井藩の小物成の徴収額が記載されています。
地方取の知行とされた村々
年未詳「寺社并地方取中給知村別帳」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143‐20061
福井藩の給人(知行をもらっている家臣)のなかでも地方取(600石以上の給人)の知行とされた村のリストです。
一村全てが知行地の場合は“丸村”、他の給人と分けあっている場合は“相給出切”、蔵入地(藩の直轄地)と分け合っている場合は“御蔵相給”と記述されています。
藩の基本法令「御用諸式目」(1691年(元禄4))によると、給人のなかでも600石以上を地方取、550石以下を御蔵出と呼び、区別していたことがわかります。
「御収納之次第書」には、百姓は地方取には米や小物成を直接納めていたこと、御蔵出には藩蔵からの支給であったことなどが記述されています。
給人の権限は?
年未詳「隆芳院様御代御掟御法度書之写」
松平文庫(福井県立図書館保管)A0143‐02303
デジタルアーカイブは
こちら
藩が給人の知行所支配について規定した「納所方条々」(1625年(寛永2))が記載された資料です。
寺社領に対して迷惑をかけないこと、升の分量は蔵入地のものに倣うこと、夫米・糠・藁・雪垣代を徴収できる量についてなど、細かい規定が見受けられます。
「納所方条々」は、延宝期、承応期にも出されていますが、内容は全く同じです。しかし、1687年(貞享4)に出されたものには、第一条が新たに加えられ、知行所の百姓の公事諍論(裁判沙汰)は、郡奉行の管轄とされました。
代官のお仕事
1693年(元禄6)「御代官方御条目写(代官方条目写)」
片岡五郎兵衛家文書(当館寄託)A0027‐00041
代官は、一領に一人ずつ(計14人、1761年(宝暦11)以降は7人)置かれ、下役である受込、下代、書役を指揮して直接百姓の支配にあたりました。
資料は、代官の交代時に上役である奉行から指示された事項と支配する村方に申し渡した内容を示したものです。
代官の職務は、まず年貢の徴収が挙げられます。資料では、年貢の皆済が難しい百姓がいる場合は、庄屋・長百姓と吟味して稲を植えたままの田に笹竹を立て、皆済させるという保証人が出るまで刈り取らせないという指示も見られます。
一方で、自分(代官)や下役に「青菜一葉」であっても賄賂をおくらないことなども命令しています。
定免から検見取への願い出
年未詳「乍恐口上書を以奉願上候(凶作ニ付定免をやめ見免願)」
白崎九兵衛家文書 A0021‐00025
足羽郡東大味村(現 福井市)についての資料です。
従来から困窮の村柄であること、近年悪作続きであることなどを理由に、このとき実施されるはずだった三か年の定免から見免(検見取)への変更を願い出ています。
このような願い出は他村でも多く見られます。
検見取から定免への願い出
子年「乍恐口上書を以奉願候(困窮ニ付年季免願)」
福井県立図書館(森家旧蔵)A0142‐00873
坂井郡細呂木村(現あわら市)についての資料です。
こちらは、村内の百姓が力をつけるまで、年季免(定免)にしてほしいと願い出ています。一般的に領主側にとって都合のよい定免法ですが、百姓にとっても状況によっては剰余を蓄えることが可能でした。
免状(幕府領)
1848年(嘉永1)「申御
年貢可納割附之事」
宮永節哉家文書(当館蔵)A0171‐00057
デジタルアーカイブは
こちら
皆済目録(幕府領)
1849年(嘉永2)「申御
年貢皆済目録」
宮永節哉家文書(当館蔵)A0171‐00107
デジタルアーカイブは
こちら
免状(福井藩初期、複製)
1604年(慶長9)「辰之年免定書出之事(河合村年貢免状)」
斎藤甚右衛門家文書 J0028‐00062
皆済状(福井藩初期、複製)
1617年(元和3)「辰ノ年皮篭村御年貢米皆済之事(河合村 年貢皆済状)」
斎藤甚右衛門家文書 J0028‐00068
免状(福井藩後期)
1837年(天保8)「(酉年免状)」
加藤九左衛門家文書 A0057‐00081‐006
納方一紙目録
1837年(天保8)「覚(酉年御物成銀米納方一紙目録ニ付覚)」
加藤九左衛門家文書 A0057‐00081‐007
納方本通
1837年(天保8)「酉年御物成銀米納方本通」
加藤九左衛門家文書 A0057‐00081‐008
覚(給人中銀米…)
1837年(天保8)「覚(給人中銀米押ニ付覚)」
加藤九左衛門家文書 A0057‐00081‐002
覚(諸拝借上納物…)
1837年(天保8)「覚(酉暮諸拝借上納物ニ付覚他)」
加藤九左衛門家文書 A0057‐00081‐001
年貢小割帳(複製)
年未詳「(年貢小割帳)」
清水征信家文書 B0021‐00049
年貢支払いのための借金
1804年(文化1)「借用申金子証文之事(
年貢金指支ニ付)」
吉川充雄家文書(当館蔵)C0037‐00138
デジタルアーカイブは
こちら
年貢上納の差支えを理由として、坂井郡下新庄村の善太夫が、金津新町の紺屋又右衛門に借金(金子一両)をしたことを記した証文です。
年貢差支えを理由とした借用証文は、多く伝来しており、年貢滞納が日常的だったことを物語っています。
年貢支払いのための奉公
1797年(寛政9)「相定歳季証文之事(奉公)」
吉川充雄家文書(当館蔵)C0037‐00155
デジタルアーカイブは
こちら
年貢支払いの差支えを理由として、吉崎の喜兵衛および悴の喜八が、金津新町の紺屋又右衛門に年季奉公を願い出ている資料です。
報酬は銀子40匁×5か年。奉公中に喜八に不始末があった場合も喜兵衛が責任を持つことなどが記されています。
洪水のため年貢免除の願い出
年未詳「乍恐口上書を以奉願上候(洪水ニ付収納勘弁願)」
加藤竹雄家家文書(当館蔵)A0052‐00010
デジタルアーカイブは
こちら
吉田郡二日市村(現福井市)に残る資料です。
作柄不順のうえ、8月の大洪水で田畑が多くの泥をかぶってしまったため、年貢免除を願い出ています。
同村は、府中領(府中本多家の知行所)に含まれているので、宛名の代官は本多家の代官を指していると思われます。
年貢滞納で庄屋が入牢!?
年未詳「乍恐口上書を以奉願上候(納所延引庄屋入牢ニ付、村一統請合)」
白崎九兵衛家文書 A0021‐00023
足羽郡東大味村(現福井市)では前年からの返上物(借財)の返済不十分の咎で、庄屋が入牢となりました。
村人からの願い出もあり、庄屋は解放されますが、代償として村人一統で、今後は年貢を滞納しないことを誓った証文が奉行宛に提出されています。
収穫後の農作業の様子
1787年(天明7)「再板農業全書 一 農事総論」
坪田仁兵衛家文書(当館寄託)C0005‐00397
配布物