23 敦賀・福井空襲(1)
 1945年(昭和20)7月12日深夜の敦賀空襲は、日本海側の都市として最初のものでした。米軍による日本本土空襲は、6月中旬以降、呉・福岡など地方都市に目標を移しており、高射砲による反撃もかなり貧弱になっていたことから、夜間に低高度で進入して大量の焼夷弾を投下する戦術がとられるようになりました。敦賀市(人口3万1000人)は、爆撃目標とされた都市のなかで最も規模の小さい市でしたが、米軍の「作戦任務報告書」では、朝鮮との3大定期連絡港の1つであり、関門海峡の機雷封鎖によって日本海航路の重要性が高まっているとして「重要な目標」にされていました。

 当日の敦賀市の天候は戻り梅雨で、上空は厚い雲におおわれていました。市街地東部の川東地区がまず火の海となり、児屋川と旧笙ノ川にはさまれた川中地区にひろがっていきました。2時間ほどの爆撃で、市内の全戸数の約7割にあたる4119戸(復興事務所調査では4273戸)が焼失し、1万9000人の市民が家を失いました。

 1週間後の19日深夜の福井空襲は、快晴であったため、さらに壊滅的な被害となりました。B−29 127機による81分間の集中的な爆撃で、福井城址北西付近を中心に半径1.2キロメートルの範囲をめがけて、865トンもの焼夷弾が落とされたのです。市街地の損壊率は米軍の評価で84.8%と高く、この時期の地方都市爆撃では富山市、沼津市につぐものでした。2万戸以上が焼失、9万人以上の市民が罹災し、死者数も敦賀空襲の十数倍にのぼる1500人をこえる被害となりました。

 県内でも市街地を中心に頻繁に防空・灯火管制の訓練が行われていましたが、大規模な都市爆撃の前にはまったく無力でした。すでに日中戦争では、日本軍によって重慶などを目標とする都市爆撃が行われており、非戦闘員をも区別なく、戦禍に巻き込む近代戦の悲惨さを県民は目の当たりにすることになりました。

 その後敦賀市には、小規模でしたが30日、8月8日と2度の空襲がありました。とくに8日のものは、9100メートルの高空から昼間に目視で「化学工場」(実際には東洋紡績敦賀工場)を標的として投下した原子爆弾の模擬弾であったことが、のちに明らかになります。
 敦賀空襲(7月12日)の罹災区域
 ▲敦賀空襲の罹災区域
              『敦賀市戦災復興史』による。
 福井市を爆撃した米軍第20航空軍第58航空団の航路図
 ▲ 福井市を爆撃した
   米軍第20航空軍第58航空団の航路図
 テニアン島を飛びたったB-29は、編隊を組まず
 に硫黄島上空をとおって、三重県熊野市近郊の
 猪ノ鼻岬をめざして飛行した。ここから琵琶湖北
 岸、福井市、右旋回して御前崎付近をとおり、基
 地までもどっている。
 「作戦任務報告書」 東京都 国立国会図書館蔵

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