22 銃後のくらし(1)
 戦争の長期化にともない、国民統合の組織として1940年(昭和15)10月、大政翼賛会が結成されました。これによって、すべての政党は解散し、12月には大政翼賛会福井県支部が発会しました。下部組織を強化するために壮年団は、翼賛壮年団に改組され、同様に労働組合は産業報国会に、農業会・水産会・産業組合は農業報国連盟に、愛国婦人会・国防婦人会は大日本婦人会に、青年団・女子青年団は大日本青少年団に統合され、翼賛会の傘下におさめられました。

 農村部が多い県下の銃後活動のなかで、町内会・部落会にたびたび指示・徹底されたのは、食糧増産でした。これに貯蓄・国債購入、衛生・体力向上、金属回収などの事項が次いでいました。

 最も重要視された食糧増産は、召集による労働力の減少、軍需転換による資材の供給悪化など、農業生産力を減退させる要因が山積みするなかで取り組まねばなりませんでした。開戦当初は、青年団・婦人会・小学生など村民総出での勤労奉仕、農繁期の共同作業・共同託児所の実施などによって、かろうじて不足した労働力を補うことができました。しかし39年7月に国民徴用令が出されてからは、いわゆる「白紙」徴用によって、県外の軍需工場や軍施設に動員される場合もでてきました。なにより応召者・戦死者の増加によって、農繁期の労働力不足は深刻なものとなっていきました。

 他方、貯蓄運動では、福井県は38年から41年まで、全国でも1、2位の高い達成率(割当額に対する達成額)をあげましたが、42年からは中位以降に落ち込んでいました。「貯蓄戦」のかけ声にこたえて捻出した国民貯蓄も、戦後の預金封鎖とインフレでほとんど無に帰してしまうことになります。

 また、生活必需物資の統制もしだいに強化されていきました。39年から40年にかけて、地下足袋・綿製品・砂糖などの購入票による配給制が実施され、41年3月以降、米の通帳制も行われました。

金属回収で供出された生活用具
▲金属回収で供出された生活用具          今庄町 島崎文治蔵
    「名誉之家」の標札
     ▲「名誉之家」の標札
          福井県立博物館蔵
        女子青年団の分列行進 今庄町 島崎文治氏蔵 女子青年団の分列行進

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