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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    五 商業の変革と動向
      福井食品卸売市場の開設
 福井市の生鮮食料品の取引は、戦後の統制が解除されると、もともと営業を行っていた魚町・米町を中心とする地域で再開された。市場は、問屋などが集まり、道路を使用して営業を行う問屋集合市場形態であった。このような取引は、取引量が増大するにつれてしだいにその問題が表面化するようになった。
 福井市は一九五三年(昭和二八)に調査を行い、つぎのような問題点を指摘した。
 一 街路上の取引は衛生的見地から不潔であり、伝染病が発生した場合はとくに危険で
    ある。
 二 交通を妨げ、交通事故の原因ともなる。
 三 地理的に鉄道から離れすぎており、鉄道の引込み線は敷けず、食品の鮮度が低下
    する。
 四 場所が狭隘で、今後の福井市の発展にともなう消費増加に応ずることは不可能であ
    る。
 市場付近の市民は、騒音と臭気に悩まされ移転を要望した。そのため福井市は、市場の移転と市営を考えて調査・研究を開始した。市議会においても、五四年二月に市営食料品卸売市場調査委員会を設置して、この問題に対処した。市場の移転に対しては、地元住民は賛成、業者は反対という立場が表明されたが、結局業者側が福井市の説得に応じることによって移転の見通しが得られた。
 市場の移転先としてつぎの四つの候補地が考えられた。(1)国鉄福井駅東部のガス局北側(安本工場跡)、(2)西部の湊小学校裏、(3)南部花堂の南福井駅付近、(4)北部田原町電車駅付近。これらの候補地のうち、(1)と(2)の候補地はともに鉄道の便が悪く、(3)の候補地は南福井駅に近く県外からの入荷には便利であったが、県下各地への分配には不便であった。そのため市の中心部に比較的近く、また京福電鉄・福井鉄道などが集中し引込み線敷設に都合のよい(4)の田原町案が選ばれることになった。
 五六年、田原町に市場が開設された。敷地は一万三四九八平方メートル、店舗は水産物八、青果六六、乾物・塩干・漬物一八、加工食品一五などで、合計一八三店舗であった。市場は正式には福井食品卸売市場といったが、一般には田原町市場の名称で親しまれた。開設当時は北陸地域でもっとも大きな市場で、設備も近代的なものを誇ったが、急激に進行する高度経済成長のなかで、早くも六〇年代の前半には、その限界がみえるようになった(『新修福井市史』2)。



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