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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
     四 合成繊維への転換
      ナイロン不況の発生
 後発メーカーが本格的に出揃った一九六四年(昭和三九)六月、東レがナイロン糸建値の引下げを発表し、ナイロン糸の生産過剰が懸念される事態となった。すでに六三年末の金融引締め以来国内景気が冷えこみ、県内でも月島機械をはじめ金属機械工業、建設業を中心に倒産があいついでいたが、織物業界は糸価の低落もあり年末まで好調に推移した。しかし、一二月に東レの工賃支払が全額現金払いから半額六〇日サイト手形払いに切り替えられるとともに、翌六五年一月からの東レ一六・七%、日レ一五%のナイロン糸の減産が発表された。そして六五年一月の東レのナイロンタフタ商社賃織の全廃、傘下機業に対する賃織数量の削減の発表を皮切りに、滞貨の著しいタフタ、シャーなどのナイロン量産品を中心に、各メーカーが賃織発注の削減と工賃の引下げを発表し、福井産地はいっきょに深刻な不況に直面することになった。七月一四日には福井県繊維不況危機突破大会が開催され、メーカーの機業へのしわ寄せの排除、借入金返済の繰延べ、利子補給などの要求とあわせて九月からの同盟休機による二割操短を決議した。しかし石川産地との調整がつかず、また県内の機業の足並みも揃わなかったため、結局操短はかけ声倒れに終わった(『日刊繊維情報』65・7・15、8・3)。
 不況は六六年なかばまで続き、業界では系列の後退がささやかれ、あらたな受注先の開拓につとめる機業も現われたが、結果的には比較的ダメージの少ない不況であった。第一に、原糸メーカーは賃織発注の削減にさいし、なんらかのかたちで休機補償、再転換資金の援助をはかった。たとえば東レでは六五年六月の第三次発注削減にあたり、立直り援助金として一台あたり一万五〇〇〇円から三万五〇〇〇円の支給と、既存の合理化資金融資の返済を猶予することを発表した(『日刊繊維情報』65・6・17、66・1・1)。第二に、次期の主力商品とみられるポリエステル加工糸織物がアメリカ向け輸出を中心に比較的好調に推移しており、従来のイタリー式撚糸機にかわり仮撚機の設置を進める機業がふえていた。第三に、家族労働に依存した零細機業の動きが活発化した。賃織削減や工賃引下げをものともせず織機一台につき一か月間に二五疋から三〇疋を織り上げるようすは、当時の南ベトナムの農民ゲリラになぞらえて「ベトコン機屋」と呼ばれた。これに対して、二〇台から五〇台規模の機業は不況のダメージが大きく、彼らの右往左往するさまを「ベトナム政府軍機屋」と揶揄するむきもみられた(『日刊繊維情報』65・8・12)。



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