目次へ  前ページへ  次ページへ


 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    四 教育機会の拡大
      高校生徒急増対策と高校全入運動
 こうした高校の準義務教育化ともいわれる状態は、当該年齢に占める高校進学者の割合からみれば、図56(図56 高校進学率(1950〜90年度))のように一五年間にわたって徐々に進行したものであったが、さらにこれを生徒数でみると、三年間ほどに集中した激的な変化であったことがわかる(図57)。すなわち、五〇年代に入って一万五〇〇〇人から二万三〇〇〇人にゆるやかにふえていた県内高校生徒数は、一九六三年度(昭和三八)から六五年度までの三年間にいっきょに四万人台に急増した。これは、よく知られているように四七年から四九年生まれのいわゆるベビーブーム世代が高校へ進学する年度にあたっていたためであった。
図57 園児・児童・生徒数(1948〜90年度)

図57 園児・児童・生徒数(1948〜90年度)

 福井県では、五七年六月に坪川健一、安丸一郎ら七名による福井県教育振興計画研究会に「県教育振興五か年計画」の策定を委嘱した。翌五八年一月、同研究会から答申が提出された。答申では、小学校で五八年度は一学級五五人以下、五九年度から五〇人以下、中学校で五八年度から五〇人以下を基準とした学級編制が望ましいとされた。さらに五か年間で小・中学校の不足校舎・危険校舎七万坪、県立高校の不足校舎・危険校舎一万六〇〇〇坪の増改築、建設中の福井工業高校に加えて、さらに工業高校の増設、産業科学教育センターの創設などが提言された(『福井県教育振興五か年計画案』)。
 しかしながら、同計画では高校入学者数を六年後の六三年度まで、一律に進学率三四・一八%として算出しており、現実の高校生徒数との懸隔ははなはだしかった。その後六〇年一〇月に県教育委員会で審議された高校生徒急増対策においても、入学者の伸びは進学率年一%増で推定していた。現実には年二%から五%増で進学率が上昇しており、大きな誤差が生まれることになった。たとえば高校生徒数がピークをむかえる六五年度の推定値は二万七〇〇〇人であり、実際の四万人を一万三〇〇〇人も下回っていたことになる。
 さらにこの推定値は、六一年の県総合開発計画にも引き継がれ、六四年の計画改訂にいたっても、七〇年度進学率推定は七二%であり、現実の八三・一%を大幅に下回っていた(『福井県教育百年史』2、『福井県総合開発計画書』下、『福井県総合開発計画書(改訂版)』)。
 このように高校への進学要求は、県当局の予測をはるかにこえて増大しており、県内でも高校全入運動が展開されることになる。福井県では五八年度から二大学区制を採用したこともあり、中学校では放課後や長期休暇を利用した補習授業を実施し、都市部では塾に通う生徒も多く、進学準備教育が激しくなっていた(『福井新聞』57・10・12、59・11・22)。
 福井県教職員組合では五九年六月の第二〇回大会で高校増設、施設の整備拡充、定員増を要求するとともに、入試準備のための補習授業の弊害を父兄・県民に訴えていくことが決定された(『福井県教組四十年史』)。さらに六二年一〇月には県教組、県労評、県連合青年団、県連合婦人会、県全労、福井県PTA連合会など県内の約三〇団体が出席して、「教育を守る県民会議」が結成された。ここでは進学希望者全員の高校入学を実現するために、高校増設、設備拡充、学区制の再検討などが運動目標に掲げられた。あわせて教科書の無償配付、給食費の全額国庫負担などの運動を進めることも決議された(『福井新聞』62・10・7)。県教組を事務局としていた同県民会議は、全国的な高校全入運動と呼応し、六三年には県内で一〇万人署名運動を行った。翌年には、郡市のPTA連合会を中心に「高校進学対策協議会」が結成され、高校新増設と定員増を求める運動が進められた(『福井県教組四十年史』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ