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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    一 一九六〇年代の県政
      初の県人知事
 この事件は当時のはやり言葉で、県会「黒い霧」と呼ばれたが、県民の広範な怒りをかった。県政刷新議員連盟は社会党や民社党と組んで、県議会の即時解散を訴えたが、山本議長ら県会自民党主流派はこれを拒んだ。結局、県議会の解散はなく、一九六七年(昭和四二)四月改選期を迎えて起訴された議員からも六名が立ち、そのうち四名が当選した。腐敗の批判を掲げた社会党もこうした議員を落選させるだけの議員を多数立てる力量はなかったし、かえって県政刷新議員連盟所属議員が「仲間を売った」という批判から落選したりしている(『朝日新聞』67・4・17)。
 県会「黒い霧」事件は六八年一一月一二日、福井地方裁判所において全員無罪判決が出た。一一月二一日、福井地方検察庁は名古屋高等裁判所金沢支部に控訴し、七〇年、逆転有罪判決が出された。最終的には七三年三月一九日、最高裁判所は名古屋高裁金沢支部の有罪判決を正当と認めたため全員の有罪が確定した。有罪となった九名の議員は七三年五月一五日の「沖縄返還に伴う政治犯の特赦」により復権した(『県議会史』5)。
 この「黒い霧」事件自体には知事は関与しなかったが、北県政二期目にして県議会とのなれ合いが生じ綱紀が全体にゆるんでおり、この事件はその現われであるとうけとめられた。細かいことにこだわらず大きなことを語ってきた北知事は、庁内の監督が十分に行き届かなかった点も否めず、県議会に対しても歳費の値上げをのみ、県議会議事堂の新築もあっさりと認めるなど、甘い対応に終始した感もある。新議事堂の落成式の前日に県会自民党が分裂して県政刷新議員連盟がつくられ(『福井新聞』66・6・14)、これが結果として「黒い霧」につながっていくところなど、ある意味では象徴的でもある。
 三選をめざす北知事の前に立ちはだかったのは、農政連がようやく組織内を一本化して農民代表の県人知事候補としておし出してきた当時の県農協中央会会長、中川平太夫であった。
写真86 中川平太夫

写真86 中川平太夫

 中川は県議会議員を務めていた五二年三月に出身地の遠敷郡野木村の農協組合長となった。五五年には県農協中央会の副会長となるが、この年の七月、参議院選挙久保文蔵候補派の選挙違反にからんで県議会議員を辞職する。以来中川は農協活動に専心し、事業の近代化、単位農協の合併などに務めてきた。当時、町村合併が進み県下市町村は農協法施行時の四七年時点の一七八から六〇年時点では四一に減っていた。しかるに農協は一八二から一七九農協となっただけで小規模農協の乱立状況だった。六一年の「農協合併促進助成法」施行をうけて、中川はまず六二年に足下の遠敷郡の野木・鳥羽・瓜生・三宅・熊川農協を合併し上中町農協を発足させた。そして、農業構造改善事業のパイロット地区指定をうけて、小規模農協では望むべくもない斬新な大規模事業を次々と行い、県下の農協合併の気運をおし進めたのである。合併促進助成法の期限が切れる六五年には県下の農協は九八になっていた(『中川平太夫伝』)。
 これまで、農政連は推せんする知事候補を一本化しようとして二度、断念した。農政連および表裏一体の組織である農協が十分なまとまりを欠いていたことと、農村票を十分まとめきれる魅力的な候補を欠いていたことが統一推せん候補見送りの理由であろう。三度目にいたり、さきに述べたような農協組織末端の合併が進んだことと、県四連の間の関係も指導連から発展した中央会の位置をさらに高め、六五年には中央会の会長を四連共通の会長とするなどの組織の一体性を高める方向での改革が進んだこともあり、統一候補擁立の条件は整った(『中川平太夫伝』、『月刊新福井』67・3)。農政連発足のきっかけとなった五八年六月の米価要求農民大会において「農民の政治力結集」動議を出したのはほかならぬ中川であったし、中央会副会長として農協合併をおし進め、最初の四連共通会長となったのも中川であった(『中川平太夫伝』)。六七年の知事選挙には、農政連は農村票をまとめることのできる魅力的な候補をもっていたのである。
 六七年一月一五日、県農業会館に四連役員、単位農協長、婦人・青年部代表、農政連選対委員ら二五〇人を集めて県農協・農政連組織拡大会議が開かれ、満場一致で正式に中川の推せんが決められた。ついで二〇日、県農政連臨時総会でも満場一致で中川の推せんを決めた。ともに合言葉は「県人知事」であった(『読売新聞』67・1・16、『福井新聞』67・1・21)。この動きに反自民、反北県政ではあるが独自候補を擁立できない勢力が次々と呼応した。まず、全日農県連(会長斎木重一、八〇〇〇人)が二月五日に、ついで福井地方同盟(会長中島優次、二万五〇〇〇人)が二月一八日にそれぞれ推せんを決めた(『朝日新聞』67・2・6、『中日新聞』67・2・19)。県労評と社会党が中川推せんを決めるのは告示直前の三月一六日であった(『福井新聞』67・3・17)。中川陣営が北の自民党公認を妨害する目的で自民党にも推せん申請を出したことや、県労評内部に農村の推す保守候補である中川に相乗りすることに対する抵抗があったことから、やや曲折があったわけだが、最終的には、ここに空前の労農提携がなったのである。
 これに対する北知事の陣営は足並みがそろわなかった。自民党所属県議会議員のなかには中川推せんを決めた県農協の単位農協長を務める者もいたし、北批判をくり返してきた県政刷新議員連盟所属議員もいたからである。結局は三月一二日の自民党県連総務会で、農政連系総務や刷新連盟系総務が退席した後、北の公認を決めた。しかし、自民党県連は事実上分裂し、反主流派は公然と中川を支持したのである。
 四月一五日に選挙は行われたが、結果は中川の大勝であった。自民党への「黒い霧」批判と県人知事待望ムードが結合した結果であるとともに、「農民の政治力結集」の成果でもあった。



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