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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
     二 人絹不況と系列化
      系列化の前史
 「機業の系列化」という言葉は当時から明確な定義なしに多様な意味合いで用いられているが、その基本的なメルクマールを、機業の使用原糸および織物の販売先について原糸メーカー別に固定したルートが確立するという点におくと、賃織生産の拡大に系列化の端緒を見出すことは妥当であろう。
 福井県における賃織生産は、すでに戦時中の人絹の指定賃織制や戦後の繊維貿易公団による輸出向け絹織物の委託生産として行われていたが、一九四九年(昭和二四)の統制解除から朝鮮戦争ブームにかけて、原糸・織物の自由売買が急速に増大していくなかで、賃織取引もまた一定の拡大を示した。というのは、大機業が戦時統制以来継続的に特定メーカーから原糸を調達するルートを持っていたのに対し、中小機業のなかに運転資金の慢性的不足という事情を背景に賃織形式での原糸の安定的確保をはかるものが現われたからである。四九年に発足した地区組合のなかには、原糸の共同購入・織物の共同販売事業に積極的に取り組んだ所があり、そのさいにメーカー・商社との賃織契約の推進につとめた。戦前から旭絹織(当時)のベンベルグ糸使用撚り織物の生産に特化していた大野産地では、大野織物工業協同組合の共同事業として、五〇年度には二二万六〇〇〇ポンドの原糸購入と約七万疋の織物販売契約を取りつけたが、その他に旭化成の特約商社を通じて約三万五〇〇〇疋の賃織契約を結んでいた(『大野織物業界のあゆみ』)。また高志織物工業協同組合の動きもめだっており、傘下約一三〇余の機業に対し、商社からの受注、賃織あっせんを行っており、しだいに、技術的に信用がありかつ連帯責任をもてる者で統合体を結成させ、この統合体と商社との連携を組合があっせんするようになっていった(『福井繊維情報』50・10・21)。



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