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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    一 小幡県政と羽根県政
      県議会議員構成の変化
 最後に、二人の知事の在任期間の県議会議員の構成について検討しよう。図42に戦後第一期(一九四七〜五一年)から第六期(六七〜七一年)までの県議会議員の当選時の年齢構成(補選による当選議員をのぞく)を掲げる。なお、戦後の県議会議員選挙はすべて任期満了にともなうものであり、任期は選挙年の四月三〇日から四年間である。
図42 戦後県議会議員の年齢構成(第1〜6回)
図42 戦後県議会議員の年齢構成(第1〜6回)
注) 『県議会史』4、5、6による。

 この図から明らかなように、第一期の議員は非常に若い。戦前の議員歴をもつ者はただ一人で、他はすべて新人である。平均年齢が若いというだけでなく、全体として若い議員ばかりの集団であった、ということがいえる。二〇代が一人、三〇代が三人、四〇代が二八人いて、これだけで、全体の八割を占めるのである。四〇代のなかには四〇歳ちょうどの議員が五人含まれているので、この集団は非常に若いということがわかるであろう。市町村議会議員や村長などの前歴をもつ者が半数近くいるが、半数は議員というものにはじめてなった人びとであった。また議員の前歴を有するという人びとも多くは合併前の小さな村の議員であって、県議会のような舞台で物慣れた振舞ができるほどの経験があったとはいえない。その意味では初期の議会があふれる活気と混沌の状況を呈したのも当然である。
 第二期(五一〜五五年)、第三期(五五〜五九年)の議員はこれに比べて、年齢構成だけからみても後の構造に近づく。第二期には三人の戦前の議員が復帰しており、第三期では一人復帰している。こうした議員や公職追放による遠慮組の復帰により平均年齢は押し上げられ、その後の構造に近いものとなっているのである。ただ、なお県議会議員へのリクルートメントのパターンが安定したわけではないことは、半数以上が入れ替わり続けていることでもわかる。第二期県議会には一七人の再選議員、いわゆる二年生議員がおり、第三期には三期連続当選議員が五人と一期の返り咲きの元議員が一人、二期連続当選議員九人がいた。おおむね三期までに出るべき人は出たようで、およそその後は、新人による入れ替わりの数も減って安定したパターンに推移していく。
写真68 戦後第1期の福井県議会議員
写真68 戦後第1期の福井県議会議員

 その意味では、第三期に名を連ねた議員には、その後の福井県議会をリードしていく人びとが多く含まれている。会派についてもすぐあとでふれるが、第二期の革新クラブや第三期の若越新政会は、ともに新人議員が中心となってそれぞれの期の県議会の主導権を握った会派である。新人中心の会派が大きな影響力をもつ、というのは、秩序形成期ならではのことであるといえる。
 会派についても少しふれておこう。農村県一般にみられる傾向だが、県議会は圧倒的に保守系議員が占め、会派は地域間競争の対抗軸を中心に形成される。こうした基本的な対抗軸のうえに、議長、副議長ポストをめぐる離合集散が加わり、やや複雑な様相を呈することになる。
 第一期県議会は農民連盟が最盛期にあったときに選挙が行われ、第一回臨時会(四七年五月)においては農民連盟系一九人、非農民連盟系一九人、中立二人で議長職をめぐってきびしく対立した。会派が確立した第一七回定例会(四九年三月)における勢力分布は自由クラブ一六人、民主クラブ一三人、農林クラブ一〇人、無所属一人であった。
 第二期県議会では旧農林クラブ系議員の多数派工作が奏功し、過半数を占める大会派政和会が成立した。第三四回定例会(五一年五月)における勢力分布は、政和会二一人、一新会(県会自由党)一五人、社会党二人、無所属三人であった。この後政和会が分裂したり、その政和会と自由党が大同団結して三二人の自由クラブができるなど離合集散をくり返す。第四二回定例会(五二年五月)では、農民連盟系から自由クラブ系までの新人議員が中心となって県政刷新を訴えた革新クラブ(一五人)が成立したりもした。この革新クラブは五三年には旧農民連盟系議員と合体し県政同好会(一八人)を結成し多数派となった。革新クラブは第二期新人議員より、会長前田治平、副会長中川平太夫を選んだ。
 第三期県議会は、当初、この期の嶺北出身新人議員グループと嶺南議員グループが合同してできた若越新政会が中心となった。新人たちが結束し、正副両議長ばかりか、文教委員長をのぞく正副常任委員長も彼らで独占して気勢を上げた。この策動を中心となって担ったひとりが前神明町長の山本治であった。第六三回臨時会の時の勢力分布は、若越新政会二四人、坂井クラブ六人、自由党県議団六人、社会党三人、日本民主党一人、無所属一人であった。中央政界の保守合同は県議会にもその気運を生み出すが、県議会において自由民主党が成立したのは五六年一二月のことである(『県議会史』4)。



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