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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    一 小幡県政と羽根県政
      小幡知事の再選
 一般に、インフレーションが進むなか、戦後あらたに生じた財政需要に応えねばならなかったことに加え、震水災よりの復旧という最優先の政策課題を突きつけられて、福井県の財政は困難に陥った。小幡は自身「転禍為福」を唱えて、中央との連絡を密にし、復旧のためという旗印で巨額の国費を福井県に導入した(「福井県財政事情」)。これに成功した彼は、その成功ゆえに知事を一期でやめることはできなくなってしまった。高等文官試験に合格し内務官僚となった者のひとりとして、小幡自身も中央政界をめざしていた。しかし、その中央官界に対する顔の広さを最大限に活用して復旧に要する予算を獲得してきた小幡は、二期目の出馬を県内各界より請われ断れなかったのである。復旧にはまだ時日を要するし、それには国費の導入が不可欠で彼の手腕が必要である。中央との折衝において彼に代わる知事候補は見つけにくかった。小幡にとっても中央政界進出を志すのならば、福井県を地盤にしなければならず、二期目の知事選出馬を断ることは県下の支持者の不興を買い、長期的な意味でも国会進出を断念することを意味していた。かくして小幡は知事を二期つとめることを覚悟したのである(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四十年』)。
 その小幡に予期せざる政敵が立ちはだかることになった。小幡自身が呼び寄せた副知事、北栄造である。北がなにゆえにこの時、小幡と争う気になったのかは定かではない。小幡が門田一農林部長を重用し、これがおもしろくない北が態度を硬くしたのだともいわれているが、証拠のある話ではない。ただ、小幡が門田農林部長を重用したことは事実である。
 一九四七年(昭和二二)四月五日の最初の知事公選にさいして小幡と争ったのは、農民連盟の稲沢清起智であった。農民連盟は、農協の整備とともに急速に力を失うが四七年は知事選をのぞく各級の選挙でめざましい勝利を収めていた(『県議会史』4)。県議会でも多数を占めたことは先述のとおりである(第三章第二節一)。この稲沢との選挙戦では、郡部の得票で僅差ながら遅れをとり、市部の支持でかろうじて当選を果たした小幡は、農民を味方につける政策に意を用いることにした。その意図が前述の六大振興対策、六重点対策(「六・六政策」とも呼ばれた)に表わされている。自身で庁外に出て農民との接触をはかっただけでなく、腹心の農林部長、門田にも農業関係者の掌握につとめさせた(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四十年』、『県議会史』4)。その甲斐あって五一年四月三〇日の選挙では、約九万票の大差をつけて小幡は再選を果たした。とくに郡部では小幡一六万票、北九万票と、圧倒的な強さを示したのである(福井県選挙管理委員会『選挙の記録』)。
 こうして北の挑戦を退けた小幡は、副知事の人選に苦慮することになる。北を呼び寄せたときと同様に、能力的にも信頼のできる人物に庁内の掌握を任せたいのだが、北のように自分に対し挑戦するような人物でも困るのである。県議会などからは県人副知事の要求もあったが、小幡はこれを無視し、自分が能力も人柄もよく知っている内務官僚の後輩たちのなかから人材を物色し、最終的には羽根盛一を選んだ。羽根はいったん学問の世界に入ったが三三年の滝川事件をきっかけに官界に転じ、主として警察畑を歩んだ。年齢は小幡より上であるが、官界では後輩である。栃木県警察部長を小幡の後任としてつとめており、富山県知事(四七年二月赴任のいわゆる公選管理知事)を最後に退官していた。特高警察関係の前歴があり公職追放令に該当したのである。福井県副知事には占領が終結し、追放解除の後に就任している(『日本の歴代知事』2、『県議会史』4)。



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