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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    一 六・三・三・四制教育の実施
      通信制・定時制
 「教育基本法」第三条に定められた教育の機会均等をはかるため、「学校教育法」では勤労青少年を対象に定時制課程の設置と通信教育による高校教育の履修が制度化された。福井県では新制県立高校について新学制実施協議会が一九四八年(昭和二三)二月に全日制普通高校一二・同実業高校八、定時制高校一一・同分校四を答申した(『福井新聞』48・2・6)。軍政部はこれに対し全日制高校の統合を強く勧告したが、定時制については答申に沿ったかたちで進み、同六月「定時制高等学校生徒募集要綱」が公告され一一高校と一分校の生徒が募集された(資12下 一二六)。これは全日制高校を定時制の中心校とし、分校については市町村が教員給与費以外を負担すれば校区内に設置することができるとしたため、経済力のある市町村の希望に沿うかたちでの分校設置が認められたからであり、小学校・公民館の施設を利用しての開校となった。授業の開始は同年六月の震災によって福井第一・第二高校が四八年度の生徒募集を中止したほか、実質的な開校にいたらなかった丸岡高校をのぞき、被害の少なかった地域ではおおむね順調にスタートした(『高志高校三十年史』、『福井県高等学校定時制通信制教育二十年史』、県立丸岡高校『七十年史』、『三国高校の七十年』、『大野高校八十年史』、『若高80年のあゆみ』)。しかし、地域の実状に応じて当初予定の課程を変更した学校もあった。ただ、開校までの期間が短く一般への広報活動に不十分な点があったことは否めない。こうした県立高校のほかに市立福井高校にも定時制が設置され、私立勝山精華高校は半日交替の定時制高校としてすでに四月に開校していた。
 福井県での通信教育は四八年五月の「高等学校通信教育規程」にもとづき、同年八月に「通信教育に関する規則」(県規則第二九号)が布告され、福井第一高校(藤島高校)・小浜高校(若狭高校)に併設され通信教育部として発足した。しかし、福井震災のため福井第一高校は四八年度の生徒募集を行わず、小浜高校は四八年一二月に開講式を挙行した。当時は、全日制教員による兼務であった。



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