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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    一 六・三・三・四制教育の実施
      男女共学と小学区制
 男女共学に関して文部省は、「新制高等学校の実施の手引き」(発学第五三四号)で別学を許容し共学の実施に慎重な姿勢をとっており、一九四八年(昭和二三)二月段階では、福井県の県新学制実施協議会も共学を打ち出していたものの、実情に鑑み五〇年度からと考えていた。これを一転させたのも第一軍団の強力な指導であり、軍政部も四月からの男女共学を積極的に打ち出した(加藤佐助「福井県の新制高等学校創設から現在まで」)。三月末に共学が決定され、四月の新制高校発足とともに男女共学が実施された。しかし当初の実態となると男女別の学級編成が行われたり、また、生徒間の違和感が拭えず、期待された完全な共学とはいいがたい点もあった(「月例報告書」、県立丸岡高校『七十年史』、『武生高等学校七十年史』)。なお、新制高校発足時点に男女共学を実施しえたのは、滋賀・福井・和歌山・大阪・宮崎の府県にとどまった。その後順次実施されていったが、第九軍団の統括する東日本では遅々として進展をみせず、第一軍団統括の西日本ときわだった対照をみせた(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。
 学区制の根底にあるのは学校間格差の是正による教育の民主化であった。新制高校発足時に併設中学校三年修了者はいちおうそのまま在籍の高校へ進学したが、統合された旧制中等学校の生徒は指定された高校へ進学せざるをえなかった。こうしたなか、福井震災を契機として、軍政部の強力な指導もあり、罹災地域をはじめ他地域にも試行が及び、四九年三月に「福井県公立高等学校通学区域規則」が公布された(「月例報告書」、資12下 一三一)。これは小学校校区を中心としたもので、すでに高校に在籍している生徒も強制的に転校させ、同時に教職員の大幅異動を断行した。このため、教員・保護者間に不満も生じ同年四月には「苦情処理委員会」が設立された(「月例報告書」)。しかし、希望校に入るために寄宿・養子縁組などによるもぐり転校の問題や、福井地区のみが狭き門とされる状態などが指摘されていた(『福井新聞』49・4・28、11・25)。そこで、軍政部も学区割についての調整の必要を認め、五〇年四月に通学区域の変更を行った。いわゆる小学区制である(「月例報告書」)。
 四九年度から県内高校の教育関係者を集め、生徒指導の基本方針や生徒活動のあり方についてディーン講習会が開催された。これをうけ、生徒の自治活動を促進する試みが各校で開始されたが、その一つにホーム制があった。教科学習の集団としてのクラスや学年・課程等の別を解いてホームを構成し、生徒による自治的活動を育もうとの趣旨にもとづき各校ごとに種々の形式で試行されたが、若狭高校をのぞき、しだいにクラス制へと回帰していった(『鯖江高校七十五年史』、敦中会『青松の譜』、『三高80年の回想』、『若高80年のあゆみ』、県立丸岡高校『七十年史』、県立藤島高校『百三十年史』)。



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