しかし、一校あたりの生徒数を最低六名、理想的には一名とする適正規模は、実状と大きな懸隔があり、校舎の設置場所をめぐる地域対立が依然として残るなか、統合は思うように進捗しなかった(『福井新聞』48・11・16、49・2・12、3・2)。
四九年二月、県は「福井県中学校設置基準」を制定し、六名を望ましい最小規模とし所期の統合を達成できなかった学校には補助金の認可を保留するという決定を下した。
四九年度、ドッジ・ラインによる緊縮財政で国の六・三制予算は全額削除され、国庫補助が継続するものと考えて中学校建築を計画・実施していた全国の市町村に大きな混乱をあたえた。負担金や設置場所をめぐっての紛擾がおき、市町村長などのリコールがあいついだ(長田三男・尾形利雄『占領下における我国教育改革の研究』、『福井新聞』50・1・24)。政府もあらためて打開をはかったが、こうした中央の六・三義務制への不確定な対応が元来財政基盤の弱い地方に混乱をあたえていたことはまぎれもなく、福井県でも県内一六四町村のうち町村長の更迭は七一町村に及び、その原因のトップが供米と学校問題であったとされる(『福井新聞』50・2・8)。さらには五〇年九月のジェーン台風による被害も地方財政に大きな負担を強いることになり、おりからのシャウプ勧告に起因する町村合併の気運ともからんで町村行政を大きく揺るがしていった(資12下 一二三)。
以後六・三制施設整備費問題は下火にむかうが、真の解決は五三年の「公立学校施設費国庫負担法」等の施設助成の法制化、五八年の「義務教育諸学校施設費国庫負担法」の制定を待たねばならなかった。 |