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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    四 労使関係の再編と労働運動
      経済安定九原則と労働運動
 このように労働運動に対する逆風が強まるなか、一九四八年(昭和二三)一二月の経済安定九原則の発表とこれを具体化したドッジ・ラインのもとで超均衡予算を要求された政府は、四九年五月末、「行政機関職員定員法」を公布して約二八万五〇〇〇名の人員整理を発表した。とくに国鉄は、七月、二次にわたって合計一〇万名近い整理対象者を出し、逓信関係職員も八月、二万六五〇〇名が整理対象となった。福井県では、国鉄に対して七月四日に九〇名、一五日に組合幹部五名を含む七五〇名の整理が発表され、また逓信関係職員も二四六名が整理対象となった。
 一方、デフレ政策の強行は県内の民間企業にも深刻な影響をあたえ、各地で企業整備があいつぎ、賃金の未払いや遅配も多くなった。福井県でも、四九年に約三九〇〇名、五〇年に約三一〇〇名という多数の離職者を出した(福井県職業安定課『職業安定行政年報』)。
 行政整理、企業整備は、組合数と組合員数を減少させた。表84に明らかなように、組合数、組合員数はともに四八年まで順調に伸びてきていたが、四九年に入ってその伸びは鈍り、さらに翌年になると、組合数、組合員数ともに大幅に減少した。

表85 労働争議調整事件の要求事項別件数(1947〜50年)

表85 労働争議調整事件の要求事項別件数(1947〜50年)
 このような状況のもとで争議の内容も変化した。表85にみるように、地労委が扱った争議は、四八年までは労働者の生活難を背景として賃上げを要求したものが多かったが、四九年以降は解雇反対、未払い賃金支給、退職金支給に関するものが多くなった。
 この時期の代表的な争議として、日本亜鉛鉱業中竜鉱業所労組と京福電鉄福井支社労組の争議をあげておこう。
 前者は、四八年一二月会社側が経営不振を理由に一一五名の人員整理を発表したことに端を発する。組合側は解雇の撤回を求めるとともに経営再建計画の検討を主張したのに対し、会社側は経営権をたてに譲らず翌四九年六月、労働協約の改訂を一方的に申入れ、あらためて一一五名の解雇を発表した。地労委のあっせんによりこの改訂申入れは無効とされたが、会社側は福井地裁に対して解雇有効の確認と被解雇者の立入禁止仮処分を申請し、八月には全山休業・全員解雇の通告を行った。さらに組合員八〇〇名が組合を脱退し中竜再建同志会という第二組合も結成され、組合執行部と脱退者との間で刑事事件も発生した。結局、通告は撤回されず、九月末、退職金支給などの労使協定が成立し、組合は解散し、地労委へのあっせん申請は取り下げられた。
 後者は、四九年六月一〇日の改正労組法の施行に関連して注目されるものである。この争議は四九年四月の賃上げ要求に端を発するが、六月一日の組合の地労委への調停申請が却下されるとともに、地労委があらためて新法による調停を行うために組合の資格審査を実施するという方針を明らかにしたために事態が紛糾した。地労委は中労委より旧法による解決が賢明であるとの示唆をうけ、さきの組合の調停申請を受け入れて基準賃金の五%増額を内容とする調停案を提示した。しかし労使双方ともこの調停案を拒否し、組合は七月二三日にストを決行した。これに対して会社側が組合執行部一〇名の懲戒解雇を通告したため、組合は地労委に対して不当労働行為救済の申立てを行った。会社は、解雇の正当性について、(1)改正労組法の組合の要件に合致しない(駅長・助役など管理職が組合員の一割にも達する)、(2)改正労調法に照らして違法なストである(調停開始が六月二五日であり第三七条の三〇日間の争議行為禁止に抵触する)、などを主張したため、再度、新法の施行をめぐって紛糾する事態となった。結局、中労委の指導により地労委は会社側に対して和解の折衝につとめ、一一月、会社側が解雇を撤回し、組合側が不当労働行為の申立てを取り下げることで決着をみた(『福井県地方労働委員会十年誌』)。
写真61 京福労組のスト決行宣言ポスター

写真61 京福労組のスト決行宣言ポスター

 このような労働運動に対する政府・経営者側の攻勢の高まりは、労働運動内部の主導権の転換を決定的にした。二・一スト以後高まった共産党系の運動に対する批判、労働基本権の制限にともなう官公庁労組への打撃に加えて、人員整理により共産党員や産別会議系の活動家が意図的に職場から追放されたため、運動の主導権は四八年二月結成の産別民主化同盟に移っていった。すでに総同盟は、四八年六月、全労連が共産党に支配されているとしてこれを脱退していたが、四九年に入ると、国鉄労組が脱退、全逓も分裂して「正統派」と称する民主化同盟系の組合が脱退するなど、全労連、産別会議を離脱する組合があいついだ。
 中央でのこの動きは福井県にも波及し、全逓の場合、福井支部では「一部の策動によって民主的組合の発展が阻害されている」として脱退者が続出し、鯖江支部は「正常な組合運動から離れている」として支部自体を解散してしまった。こうしたなか県の労働運動を指導してきた県労協から離脱する組合があいついだ。すなわち、四八年に福井県繊維産業労働組合連合会(県繊連、四七年一一月結成)と、総同盟県連、四九年に東洋紡績敦賀工場労組、大和紡績福井工場労組、全日通県支部、県教職員組合(県教組)、国鉄労組、さらに五〇年には、電産県支部、京福福井支社労組などの有力組合が脱退した。



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