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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    一 農地改革
      県農地委員会
 市町村農地委員会の上部機関にあたり、農地の買収・売渡計画の承認や訴願の裁決を行ったりする機関である都道府県農地委員会委員の選挙は、本来ならば一九四七年(昭和二二)一月の下旬(福井県では一月三〇日)に行われる予定であった。しかし、市町村農地委員の選挙が多くの市町村で再選挙ということになったため、遅れざるをえなかった。結局、総司令部の指令にもとづき、選挙は二月二〇日から二五日の間に実施されることになった。
 福井県では二月二五日に選挙区を嶺北(第一選挙区)・嶺南(第二選挙区)の二地区に分けて県農地委員会委員の選挙が行われた。この選挙の定員は二五名で、そのうち二〇名が市町村農地委員によって選挙された者(一号一〇名、二号六名、三号四名)、五名が農林大臣によって選任された者であった。この市町村農地委員による互選という方式は、第一次農地改革時のそれが、市町村農地委員会会長の互選によるものであったのに比べるとはるかに民主的な方法であった。
 嶺北・嶺南の県農地委員の定数(選挙による者二〇名)決定方式は事務的なもので、当時の嶺北と嶺南の有権者数・農家戸数・耕作面積の割合を平均したものを各号ごとの定数にかけて算出して決められた。結局、嶺北・嶺南の定数は嶺北が一号八名、二号五名、三号三名の計一六名、嶺南が一号二名、二号一名、三号一名の四名となった。
写真57 第1回福井県農地委員会

写真57 第1回福井県農地委員会

 投票は、高志(足羽郡・吉田郡・福井市)、坂井(坂井郡)、大野(大野郡)、今立(今立郡)、丹生(丹生郡)、南条(南条郡)、二州(敦賀市・敦賀郡・三方郡)、若狭(遠敷郡・大飯郡)の八地方事務所を会場として実施されたが、嶺南の第三号が無投票だったほかは少数激戦を反映して投票率はきわめて高いものとなった。開票は翌二六日、嶺北は県庁で、嶺南は若狭地方事務所で、それぞれ午後三時から行われた(『福井県の農地改革』)。
 市町村農地委員や県農地委員の選挙が終わり、三月末には第一回の農地買収が行われ、農地改革はいよいよ軌道に乗りだしたが、このころになると各市町村農地委員のなかから農地委員会同士のなんらかの協議機関設置の必要性をさけぶ声が全国的に強くなってきた。そのおもな理由は、農地買収計画が進むにつれて、複数の農地委員会にまたがる事例がふえてきたため、意思の疎通を円滑にする必要があったこと、また、複雑な法規をどう解釈するかについて一つの農地委員会の手にあまるものがあったことなどである。
 福井県でもこのような要請をうけて、四七年七月から九月にかけて若狭地方を皮切りに各地方事務所管内ごとに地区協議会が設立される運びとなった。名称は農地改革推進若狭会、坂井郡農地改革推進連盟、大野郡農地改革研究会などと名づけられ、委員同士の意見交換・関係法規研究などの場として利用された。またそれら地区協議会の上部組織として、一〇月に農地委員会福井県協議会が設けられ、さらに全国レベルのものとして農地委員会全国協議会が設置された(旧中名田村役場文書、旧大石村役場文書、旧平泉寺村役場文書)。



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