目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    四 戦時統制経済下の工業・金融
      戦争の進行と電力の国家管理
 第一次世界大戦以後の慢性的な不景気下で、小規模な水力発電所を主力とする福井県内の電力会社は、県下の電力会社の嚆矢である京都電灯株式会社福井支店と今立郡を基盤とする越前電気株式会社の二社を中心に統合が進んだ。一九三〇年(昭和五)からの昭和恐慌によっていっそう進行し、三一年には日野川、三七年には河野の両水力電気株式会社が越前電気に、さらに、四〇年には、すでに系列下にあった福井電力・南越電気・大正電気株式会社が京都電灯に吸収された。日中戦争のころには、大野郡下の大規模な水力発電所の周辺部をのぞいて、県下の配電区域は、福井市と足羽・吉田・坂井・大野・敦賀・三方・遠敷・大飯の各郡の京都電灯と、坂井・丹生・今立・南条の各郡の越前電気に二分された。
 産業の主要エネルギーとなった電力、とくに水力電気を鉄道のように国有化しようとする考えは、第一次世界大戦下の電力不足のなかでおこり、その後、産業政策推進の立場から政府や政党によって、各種の統制および国営化案が構想された。また、独占的な地位を築いた東京電灯や大同電気などの五大電力が、不景気による過剰電力下で激しい競争を展開する一方で、自主調整の声もしだいに大きくなっていった。三〇年一月実施の金解禁に対する産業の合理化、さらに同年にはじまる昭和恐慌は、このような傾向を電力の国家的統制というかたちで進めることになった。
 三一年四月に改正「電気事業法」が公布され、翌三二年一二月に施行された。旧法が自由競争を基本に公益事業としての保護・育成をはかっていたのに対して、事業の公益性を強調する新法は、設備合理化などの命令や電力料金の認可制、さらに経営や会計に関する規定などによる国家的統制の強化を内容としていた。一地域を対象とする地方の電気会社の経営はいっそう困難となり、より大きな資本への統合を促す結果となった。昭和恐慌下での電気事業の経営不振を、三一年制定の「重要産業統制法」と同様、独占の保護と統制の強化によって克服しようとするもので、三二年には、五大電力によって電力連盟が結成された。
 電力の需給体制の国家による管理は、三一年の満州事変の勃発による戦争の進行と、経済の軍事化にともなう景気の回復によってますます重要となった。日中戦争がはじまった三七年、閣議で民有国営の日本発送電株式会社と電気庁の設立を柱とする「電力国策要綱」が承認され、三八年四月には「電力管理法」など電力関係四法が公布された。翌年二月には総発電量の四割強を占める国策会社である日本発送電株式会社が設立され、四月には国家管理の官庁として電気庁が発足した。大同電気も、日本発送電の設立によって解散している。さらに、高度国防国家建設の要請に対応して、四一年四月には、三八年の「国家総動員法」によって「配電事業統合要綱」を決定し、全国を北海道・東北など八区(のち中部から北陸が分離し九区)に分けて統合することになった。
 北陸地方においては、自主的な統合への動きがおこっていた。四〇年末計画が具体化し、四一年八月一日、資本金八八〇〇万円で北陸合同電気株式会社が設立された。富山県の日本海電気など、富山・石川・福井三県の一二社が参加した。福井県関係では、越前電気と大聖寺川水電である。このような動きが、中部からの分離につながり、四一年八月三〇日には「配電統制令」が制定され、九月六日、一次統合として電気事業を行う金沢市、日本電力、京都電灯、発足したばかりの北陸合同電気に対して北陸配電株式会社の設立が命令された。翌四二年四月一日、富山市に本店をおき、富山・金沢・福井の三市に支店をおく資本金一億三八〇〇万円の北陸配電が設立された。配電区域は、富山・石川・福井の三県であるが、福井県では三方郡以南が当分の間、関西配電株式会社の配電区域とされた。本店は富山市に、金沢市と福井市には、それぞれ支店がおかれた。京都電灯では統合にあたって、発送電部門は日本発送電に、配電部門は北陸配電と関西配電に、さらに電鉄部門を分離独立させて京福電鉄株式会社が発足した。また、北陸配電と同様、四二年四月に関西配電株式会社が設立され、京都電灯の敦賀・若狭支店は分離統合された。一次統合は、固定資産五〇〇万円以上の事業者に限られていたので、四三年三月の二次統合においては、勝山電気が統合された。



目次へ  前ページへ  次ページへ