一九三七年(昭和一二)一二月一三日の南京占領のさい、鯖江第三六連隊脇坂部隊の光華門一番乗りが喧伝され、県民は提灯や旗行列などにその熱狂ぶりを表わしていた(『大阪朝日新聞』37・12・14)。しかし、占領の影に虐殺があり、反日意識のいっそうの高揚があったことは、県民には知るべくもなかった。また、戦勝の熱狂から冷めてみると戦死の報は相変わらず増加し、それに比例するかのように応召兵も逐次増加されていき、「事変が一日も早く解決する」ようにという県民の希望は遠のいていった(『資料日本現代史』11)。
こうして日中戦争が、戦争指導者の当初の意図に反して持久戦とならざるをえなくなると、三八年からは精動運動も、農業生産増強運動、貯蓄報国運動など戦時経済国策への協力運動に力点がおかれるようになる。三八年八月の経済戦強調週間では、物資の消費節約、廃品回収、生産の増強などが重点事項とされ、節酒禁煙・奢侈抑制・早起き励行などが強調された。また、精動運動ではおびただしい通牒が出されたが、なかでも象徴的であったのが三九年九月から実施された「興亜奉公日」である。これは毎月一日には、戦線の労苦をしのぶとともに銃後の緊張感を高めようとするものであった(『昭和一四年三月福井県国民精神総動員実施概要』)。
しかし一方では、三八年に入ると「掛声ばかりで実行が伴はぬ憾み」という新聞記事のように、特定の日や週を決めて画一的行事を行う精動運動への批判がみられるようになる。二月二日に開催された第二回の県実践委員会でも「一般家庭には何ら浸透しておらず」という批判が主管課の学務課へむけられていた(『福井新聞』38・1・9、2・3)。県実践委員会は三八年五月までに三回開催されただけであり、運動実態も主管課が中央からの通牒に一部修正を加えて、市町村へおろすという画一的、形式的な面が強かった。このことに関しては、同年末の通常県会においても問題にされ、山川登議員が、県下における実際の精動運動が外見的華やかさにもかかわらず、はなはだ不徹底なのは「当局ニ其ノ熱ト意気ガナイ」ためであり、これは「県民ノ斉シク指摘」しているところであると中野与吉郎知事にせまっていた(『昭和十三年通常福井県会会議録』)。
三八年一〇月の武漢占領も戦争終結への糸口とはならず、「暴支膺懲」のスローガンだけでは国民をひっぱっていけなくなった近衛内閣は、「国民政府を対手とせず」の方針を修正して、日中戦争の目的を「東亜新秩序」の建設とする声明を発するとともに、講和の機会をうかがうことになった。しかし、国民政府の分裂を策した汪兆銘工作も戦争終結への足がかりとはならず、また三国同盟をめぐって閣内対立がおこると近衛内閣は三九年一月早々総辞職し、かわって平沼騏一郎内閣が成立した。
こうしたなか、精動運動批判にも対処して、平沼内閣は同年三月、「国民精神総動員委員会官制」を公布して中央連盟と委員会の二本立てによる運動の強化をはかった。この強化方策のなかでは道府県にも事務局が設置されることになり、福井県でも六月に知事を局長、各部長を理事、関係課長を幹事とした福井県精神総動員事務局が設置され、数名の専任職員も配置された。七月にはひさしぶりに開催された実践委員会において事務局から提出された新運動方針が討議・決定された。そこでは六〇〇〇万円貯蓄が最大の運動目標となり、地域、職場、学校などあらゆる組織が動員されることになり、ラジオでも週二回二〇分の「精動特報ニュース」が県下に流されることになった。しかし、この地方課が主管する事務局もあまりにも県庁組織を網羅しすぎ、有効に機能しないとして早々に批判がおこり、同年秋には生活刷新は社会課、時局認識は学務課、経済戦強調運動は経済部関係課というように担当区分を明確にしていた。戦争の長期化・泥沼化は、民間の盛上りを待つ余裕を失わせ、改革のたびに、精動組織改組の趣旨とは異なり、より行政主導の運動となっていき、一方では、精動関係の大会・会議後の宴会や会食に、また市町村吏員の公金費消、収賄などの綱紀弛緩に県民のきびしい批判の目がむけられていた。 |