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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      国民精神総動員運動
 こうして日中全面戦争が、文字どおり国家総力戦の様相を示しはじめると、政府はより強力な戦争動員体制の創出を迫られ、一九三七年(昭和一二)八月二四日、閣議で「国民精神総動員実施要綱」を決定し、九月一一日に東京日比谷公会堂で国民精神総動員大演説会を開催した。さらに一〇月一二日には有馬良橘海軍大将を会長とし、財界等民間各界の代表を理事や評議員とする国民精神総動員運動中央連盟が結成され、七四の各種団体が参加した。また、道府県にも官民合同の地方実行委員会が設けられ、ここに「尽忠報国」「挙国一致」「堅忍持久」の三大スローガンを掲げた国民精神総動員運動(精動運動)が開始された。中央連盟に日本労働組合会議や全国農民組合が参加するなど、政府は精動運動を国民の盛上りによる民間主体のものにしようとしたのであるが、実際の指導は主務庁である内務・文部両省や道府県庁が行い、つねにその官僚主義や行政的形式性が批判されることになる。
写真22 国民精神総動員青年団行進

写真22 国民精神総動員青年団行進

 羽生雅則知事は、同年八月六日県民に告諭を発し、重大時局に対する県民の「協心戮力」を求め、銃後の万全を訴えた。一〇月一日には第一回福井県国民精神総動員実践委員会が開催され、知事から精動運動の具体的方策が諮問された。同委員会は、会長を羽生知事、副会長を総務・学務両部長とし、委員には貴衆両院議員、県会正副議長、市長、県町村会長、各種団体長、産業界・教育界・宗教界・マスコミ代表者、司法関係者など県下各界の四七名の有力者を網羅しており、従来の官製国民運動における県委員会などと比べその規模がはるかに大きくなっていた。たとえば三五年に組織された県選挙粛正委員会は、委員三〇名、幹事四名、書記七名であったのに対して、今回の県実践委員会は委員が四七名、幹事には県の主要課長一一名があてられ、さらに実際の運営にたずさわる書記には三倍増の二一名が任命された。また、学校長七名、婦人会・青年団関係者四名と教育関係者が全体の四分の一を占めていたことや、四部長のうち経済部長だけが委員にもなっていないところにも初期の精動運動の特色があった(資12上 一一〇)。
 第一回委員会は知事の諮問をうけて、「日本精神の昂揚」「銃後後援の強化徹底」「勤労報国」「生活の刷新」「身体鍛練健康増進」を精動運動の目標として答申した。具体的運動方法としては(1)講演会・映画会の開催、市町村や部落(町内)懇談会の開催、各種団体との協力、各種強調週間の利用、ポスター・ビラ・パンフレットの頒布、などによる県民の全生活にわたる統制と戦争への動員を可能にする体制を成立させようとした。大幅に増加した応召者の家には村税の減免や勤労奉仕の経済的援助とともに、標札「誉れの家」を頒布し、国家への忠誠心を賞賛することになる。また三七年一二月現在で、県下において一五九回の講演会・映画会が開催され七万七〇〇〇名が参加し、二四万九〇〇〇枚のパンフレットやリーフレットが県民に配布されていた(『昭和一三年三月福井県国民精神総動員実施概要』、内閣情報部『昭和一四年六月国民精神総動員実施概況』)。



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