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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    六 自動車交通の普及
      自動車事業の揺籃
 日本に自動車が登場したのは一九〇〇年(明治三三)ころで、蒸気・ガソリン・電気の各自動車があいついで欧米からもたらされた。一九〇三年には、内国勧業博覧会で、大阪梅田駅・天王寺公園会場間に乗合自動車(バス)が運行して注目され、広島県では国内初の乗合自動車業がおこった。一九〇八年には、国産車第一号のDAT号が誕生したが、大正前期までの自動車事業の発達は遅々たるものだった(『現代日本産業発達史』22)。
 一九〇三年、愛知県が国内初の自動車法令である「乗合自動車営業取締規則」を、一九〇七年には警視庁が「自動車取締令」を公布、同年東京府が自動車税を創設している。福井県も、一九〇三年一二月に「自動車営業取締規則」(県令第六四号)を公布、一三年(大正二)の通常県会で自動車税が議題となり、一五年度歳入に自動車税(年額一台一〇円、計三〇円)が計上された。この額は馬車一輌と同額で、自転車は三円であった(『福井日報』13・12・4、『大正三年通常県会決議書』)。
 福井県での乗合自動車は、一二年(明治四五)の敦賀・小浜間の運行が最初とされるが、確かではない(「大正昭和福井県史 草稿」)。同年一一月には、福井・武生間の乗合自動車運行計画がおこった(『北日本新聞』12・11・25)。翌一三年六月には、沢村吉助らの経営する若狭自動車株式会社(敦賀・小浜間)が試運転を行った。同じころ、福井・勝山間の営業が出願されている(『福井新聞』13・6・23)。同年の通常県会で、「大飯郡ニハ自動車ガ営業シテ居ルノミナラズ遠敷郡ニ於テモ敦賀小浜間ヲ不定期ニ開業シテ居リマス」という発言があり、福井県の自動車事業の濫觴は若狭地方で、小浜線開通までの代替的役割があったと考えられる(『大正二年通常福井県会会議録』)。一四年、『県統計書』に、はじめて乗用自動車三台が記録されている。



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