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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
    一 不況下の学校
      教育の地方化・実際化
 一九二八年(昭和三)四月には、学生生徒の思想善導と国民精神作興についての文部省訓令とほぼ同文の県訓令第一二号が出された。同年八月、福井県における教育の地方化・実際化に関する諮問が、小浜浄鉱知事より「福井県臨時教育調査会」に対してなされた(県告示第二二八号、『福井新聞』28・8・10)。
 この県臨時教育調査会設置の構想は、女子中等教育が普及するなかで福井高等女学校の四年制から五年制への改組が福井高女側から要望されたのをうけて、二七年一一月に市村慶三知事が提起したものであった(『福井新聞』27・11・11、県立藤島高校『百三十年史』)。市村知事はすでに同年九月に県下小学校長会議へ教育の地方化・実際化の方策を諮問したが、これをうけて出された校長会での意見はいずれも抽象的であった。このため中等教育の実際化に加えて、師範教育の改善、思想善導施策を中心に調査会が設置されることになった。同時期には、中央の教育政策審議機関として設置されていた文政審議会に諮問するために、文部省の中学教育調査会が中学教育の改善案を準備していた(『福井新聞』27・9・7、28・5・8、8・20)。
 県臨時教育調査会のメンバーは、会長が知事、副会長が学務部長、委員は三五人以内とされ、福井師範学校長(原安馬)、鯖江女子師範学校長(武政房吉)、福井中学校長(大島英助)、福井高等女学校長(石橋重吉)などの県内中等学校長をはじめ、地方視学官(佐枝常一)、社会教育主事(福士繁吉)、三国尋常高等小学校長の三好得恵なども含まれていた(『福井県臨時教育調査会調査事項』)。
 答申のなかでの地方化・実際化・郷土化の強調は、大正自由教育の実践が子どもたちの個性や自己活動を尊重しつつも、一方で現実から遊離する観念的な側面もあわせもっていたことに対する批判的意味合いも含まれていたといえる。
 福井師範卒業後、福井師範附属小訓導・東京女子高等師範教諭・東京都学務課長を歴任した坂本豊は、「児童の学習力を無制限に思って発達程度を度外視し、何かの仕組みさえすれば自発活動によってどんな学習実績もあげられるかのように思う人が多い」と述べていた(坂本豊『作業主義学級経営の実際』)。また宝永小学校長の川端太平は、「新思潮に対して大なる襟度を示すべきは勿論であるが、くれぐれも慎むべきは操守なき盲従と信念なき迎合である」と批判する視点は、その後の福井県における実際化・郷土化の実践の方向を示していた(川端太平『学校経営の理想と実際』)。
 ただし、大正期から蓄積されてきた子どもたちが自ら学ぶという自学自習という具体的な教授方法は、この臨時教育調査会の答申のなかでも継承されている。
 たとえば、「各教科中特ニ実際生活ニ聯関シテ教授スヘキ」「各小学校ニ於テ郷土ヲ中心トシタル各科学習ノ系統案ヲ作製シ各教科教授ノ実際ニ資スルコト」「児童ノ創意創作ヲ重ジナルベク実験観察ニヨリ学習ノ進度ヲ図ルコト」「個性調査ヲ重ジ教育ヲシテ児童ノ実際生活ニ即セシムルコト」「教科目ノ孤立的取扱ヲ避ケ各教科ノ聯合統一ヲ図リ」(第一部「普通教育」)などの提示がなされ、子どもたちの生活に即した学習指導を重視していることがわかる。
 同時に、他方で国家精神とのかかわりが強調され、「公民的生活ノ訓練並ニ国家的精神ノ涵養ニ努メ以テ小学校訓育ノ徹底ヲ期スル」ことがうたわれ、とくに浄土真宗信仰のあつい福井県らしく「本県ハ一般ニ宗教ノ影響ニヨリ報恩感謝ノ念厚シ之ヲ助長シテ軽佻浮薄ノ弊風ニ染マサラシムルコト」という表現もみられた。第一部の「師範教育」の答申でも郷土教育と自学自習が強調されており、第二部以降の答申内容も、それぞれの教育分野での郷土化・実際化がうたわれていた。



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