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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      「農民魂打込み」教育
 小山村長の吉田徳五郎は、小山尋常高等小学校長の中村飛知を片腕に、村民とくに青少年の教育にも奮闘した。「読み書きは出来ても、働くすべを教へてくれない学校は何にもならぬ」をモットーに、汗を愛して喜び働く「愛汗喜働」の精神を養う「農民魂打込み」教育を提唱・実践したのである。
 「垢抜け風采の教員には、可愛い児童を託せない」と、男子教員の長髪や女子教員の化粧を禁止するなど、教職員の風紀にきわめて厳格な態度を示したが、その主張は、農村の疲弊・困窮をもたらした原因の一つが学校教育にあり、小学校で農村社会の実状に即した教育が行われていないということであった。一九三五年(昭和一〇)に県知事に提出した「農山村学校教員頭脳改造」に関する陳情書では、農山村には都市と異なる教育・教科書が必要で、まずは教育内容の地方化をはかるために、教員の頭脳を改造することが必要であると説いている。農山村の教育者は「教育の美名にかくれ、手緩る教授にハイカラの身飾に流れ、地方青年の堕落の先駆者」であると、現状に対する強い不満を示したのである。
 小山村の農民魂打込み教育は、軍人と銃器の関係にならって農民と農器具の関係を重要視し、鍬を特殊な学用品に位置づけた。「鍬の光」を「農民魂の光」であるとし、鍬を用いた農民教練や農民体操、農民ダンスを考案・普及させた。農民教練は鍬を銃剣に見立てた執鍬行軍や分列式、閲兵式などを行うもので、農民体操・農民ダンスは鍬を手にして農作業のようすを踊りに表現したものであった。また小学校では、「剛健質実」を児童訓に掲げ、修身と農業を中心科目に据えて、精神の鍛錬と実習・体験による勤労教育を重視した。学校の登下校にあっても、各大字の尋常五年以上をもって中隊、同一通学路をかよう中隊をもって大隊を編成し、鍬を担った行軍登下校、その途中での道路の修繕、神社・仏閣・忠魂碑前での敬礼を義務づけた。子どもたちによる農兵さながらの訓練が日常的に行われたのである。
写真8 小山村「農民ダンス

写真8 小山村「農民ダンス」

 この「農民魂」の発想は、当時多くの農民に支持された農本主義の思想を取り入れたものである。直接的には、農会のあっせんにより福井県でもさかんに講演会を行っている山崎延吉の影響が強く、三〇年八月、農会主催による農村教育研究会の講演会でも説かれた、山崎の農民教育論「農民道」を実践したものであった。山崎は、愛知県立農林学校長を永くつとめ、二九年からは三重県石薬師村(鈴鹿市)に「農民道」の実践の場として神風義塾を開き、ここを拠点に全国を行脚して、「農民としての踏み行ふべき道、立たねばならぬ道」とする「農民道」の確立を訴えた。「農は国の本なり」とする伝統的農本思想をさらに進め、かつての「武士道」に例を引きつつ、「農民道」こそ皇国に奉公する農民の自負であり、道徳理念であるとした。
 小山村の「農民魂」の趣旨にも、近代以降の商工重視主義・都市中心主義・功利主義・享楽主義に対するきびしい批判が随所にみうけられる。しかし、これにつづけて「都市対農村」「地主対小作」等の対立観念をこえる「大乗的大精神」の立場が説かれ、「一村和合」を基盤に据えた「我が帝国の彌栄を希ふ祖国愛」の発揚が説かれている。これは、次節に述べる自力更生・経済更生運動から戦時下の皇国農村運動へとつながる農村・農民教化の理念として活用された思想である。結果的には、農業恐慌による全村・全農民的な危機意識を、国家に資する農村・農民のエネルギーに転化する役割を担ったのである。
 小山村の運動は、ある意味において特殊な事例といわざるをえない。だが、福井県の多くの農民が新聞等を通じてその動向に目をむけていたことは事実である。これほど組織的かつ継続的に行われた運動はめずらしいが、他にまったく類例をみないものではなかった。これは、戦争にむかっての農村・農民の運動や意識の大きな流れをみるうえで、一つの先鋭的な出来事として位置づけてよいだろう。



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