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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      農民の理想郷をつくれ
 農業恐慌の襲来を契機に、村長の強いリーダーシップのもとで、農民の理想郷「極楽村」の建設をスローガンにかかげ、ユニークな施策を実践する村が現われた。それは大野郡大野町に隣接する農村部で、世帯数三一〇戸、人口一七〇〇人あまりの比較的小さな行政村、小山村であった。以下、旧小山村役場文書を中心に、その動向をみていこう。
写真7 「極楽村」建設を唱うビラ

写真7 「極楽村」建設を唱うビラ

 小山村長の吉田徳五郎は、一八七四年(明治七)生まれで、初当選の一九〇五年(明治三八)から四五年(昭和二〇)にいたるまで、途中二二年から二七年にかけての五年間をのぞき、三〇余年間にわたり村長職をつとめた。大正末期から禁酒・禁煙を実行し、二七年からは肉類、牛乳、鶏卵の飲食を断って精進料理に徹するという、きわめて熱心な宗教家であり、精神主義者であったとされる。彼は、早くから皇室尊厳運動に熱を入れていたが、二八年に村内に皇室尊厳普及会を組織し、学校や役場に「皇室御肖像奉納箱」をおいて、新聞から切り抜いた皇室の肖像を宮内省に返還・奉納するという、全国でも珍しい運動をはじめた。村内全戸に伊勢大麻を配符し、毎年二名の代表者を伊勢参詣に送る代参行事も普及させている。彼がこの運動を推進した背景には、村民の檀那寺が二七か寺にもわたり、信仰面から民心の統一をはかることが困難であるという現実があった。村民に対して強いリーダーシップを発揮するためには、各宗派を否定することなく、それらを超越する包括的、絶対的な権威が必要だったのであり、そうした意味で「皇室尊厳」を主張し、「国体観念」を宣伝することが有効だったのである。三三年には、政府各大臣・県知事あてに「国旗の権威擁護に関する請願書」を提出し、敷布団や座布団等での日の丸模様の使用を取り締まるように訴えている。運動のアピールの仕方も、たいへん大胆であった。
 また彼は、「皇室尊厳」をバックボーンに、「思想善導」のための「敬神・尊仏」の信仰心の有為を説き、三二年一〇月から村会を役場に限らず、学校や神社、仏閣で開くことに決した。役場では戊申詔書、学校では教育勅語、神前では黙、仏前では阿弥陀経の読経の後に村会を開くこととした。地元の新聞も、こうした小山村の動向には目が離せなかったようで、事あるたびに紙面に取りあげている。実のところ、彼はなかなかやり手の陳情家で、政府や県に対して毎年恒例のように、いわゆる「珍情書」を提出している。村内にむかっては経費のいらない「自力更生」を強調し、外にむかっては機会のあるごとに雄弁をふるって負担軽減や補助金の配当を訴えるという、一見矛盾した二つの手段をうまく使い分けていたのである。



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