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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      越前幸若
 幸若の名が史料に現われる最も古いものは「天王社御幸供奉日記」である(資5 進止正家文書二号)。これは天王社(丹生郡朝日町西田中 八坂神社)の六月の祭礼において供奉すべき郷民の役割分担を定めたもので、嘉慶元年(一三八七)六月七日の日付をもつ。すなわち、獅子・八乙女(別当衆の児の役)・田楽(法師の役)に続いて「十六日の白昼より舞三番、これは幸若役」とある。この史料は原本ではなく、写であるために信憑性にやや疑問があるが、事実であるとすれば、都において曲舞が人びとの評判になるかなり以前から、越前においては幸若といわれる人びとが、天王社の祭礼に奉仕して舞(これも曲舞であるという確証はない)を舞っていたことになる。
 幸若と天王社との結びつきについても未詳だが、宝徳二年(一四五〇)二月十八日にも「越前田中香若大夫、室町殿に参り、久世舞これを舞ふと云々」とあり(『康富記』同日条)、幸若の発祥地が丹生郡田中付近であることは間違いない。なお田中とあるが、幸若が居住したのは印内村(元禄十三年以降は西田中村となる)であり、そのことが確かめられる最も早い例は天正十一年八月二十一日付の丹羽長秀が幸若小八郎に与えた知行充行状である(資2 桃井雄三家文書二号)。



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