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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      諸山・安国寺の永徳寺
 法華山永徳寺の開山は大休正念である。彼は文永六年に来日した禅僧で、鎌倉浄智寺の開山となっている人物である。彼の禅は仏・儒・道の三教一致の思想であった。特に彼は北条時宗の弟の宗政に三教一致を説き、鎌倉武士の間に朱子学を導入した人物として知られる。
 しかし永徳寺は一度は衰退したのであろう。中興開山として此山妙在の名を伝えている。此山も高峰顕日の門弟であり、日円寺開山の元翁や夢窓と兄弟弟子であった。彼に関する塔頭としては京都建仁寺内に如是院、鎌倉円覚寺内に定正庵があった。また、入元のおりには弘祥寺の開山である別源円旨とも会っており、帰国後も交流をもった。同寺は仏光派の寺院ということになる。
 永徳寺は足利義詮から康安二年(一三六二)八月十七日付で、安国寺を称するようにとの御教書を受けている(資2 尊経閣文庫所蔵文書二七号)。同文書によれば、火災に遭った長楽寺が再興の見込みがないので、永徳寺が安国寺となるようにとのことであった。
 永徳寺が諸山に列せられたのがいつかは未詳であるが、天境霊致(永徳元年十一月十八日没)が永徳寺に入寺する印空光心(光信)首座の山門疏を作成しているので、永徳元年(一三八一)以前には諸山に列せられていたとみることができよう。この印空は此山の弟子でのちに南禅寺の五十一世となっている。また、天境はそののちに入寺したと考らえれる山堂居首座の山門疏も作成している(「無規矩」)。また、五山文学僧の東沼周は文安元年三月に公文を受けて入寺したや、享徳元年(一四五二)閏八月に公文を受けて入寺した舜徒光韶に対して詩文を作成している(「流水集」)。なお、は永徳寺に入院する以前に京都五山の万寿寺で前堂首座という役職を務めていたことが知られ、舜徒は建仁寺の一九九世、南禅寺の二一〇世となっている人物である。少し年代が前後するが、沢庭という人物も文安から宝徳年間以前(一四四四〜五二)に入寺しており(「越雪集」)、永享十年三月二十日には光麗首座、寛正二年四月十四日には以旭首座が公文を願い出ている(『蔭凉軒日録』同日条)。永徳寺は京都建仁寺内の如是院の末寺であり、永徳寺内には開山塔の正宗院があり、同院には領地が存在した(同 寛正五年十月十四日条)。
 永徳寺は諸山寺院であり、安国寺でもあり、住山者のなかにはのちに京都五山の建仁寺や南禅寺の住持となる人物も存在したのである。



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