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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    五 外国船の来航と対外関係
      若狭と朝鮮の通交
 戊子年(一四六八、応仁二年)に大浜津(小浜津)守護代官左衛門大夫源義国が朝鮮に使者を送り、宗貞国を通じて接待を求めたとあり、また辛卯年(一四七一、文明三年)には十二関一番遠敷守護備中守源朝臣忠常が寿藺という名の僧を護送するとして使を朝鮮に派遣したとみえる(『海東諸国記』)。
 寿藺については、丙戌年(一四六六、文正元年)に肥前州上松浦那久野(藤原)頼永の使として朝鮮に渡ったとある。朝鮮では世祖の代で、日本国王(室町幕府将軍)に通信することが議せられ、あたかも渡来中の寿藺を使者として書契(外交文書)・礼物を贈ることとし、礼曹より大内氏や頼永充てに書を届けて彼を護送させることとした。寿藺は庚寅年(一四七〇)八月にも朝鮮に赴いて、先に委託された件につき報告している。それによると、寿藺は丙戌年(一四六六)六月に上松浦に帰着し、船を調えて丁亥年(一四六七)二月京都に向かい出帆したが、都で兵乱がおこり海賊が充満していたので、南海路(瀬戸内海)を避け北海路(日本海)を航行して四月初めに「臥可沙」(若狭)にいたった。使命のほどを幕府へ通告し、幕府より兵を派遣し護送して迎えられることになったが、道中の治安が悪く六〇日かかってようやく京都に着き、東福寺に館する将軍義政に書契・礼物を届けたという。戊子年(一四六八)二月に寿藺は答書を受けたが、また将軍義政も細川勝氏に命じて方物(捧物か)をそなえて使者を派遣することとし、勝氏自らも書契を認め、心苑東堂を寿藺とともに派遣したとある。寿藺の往来は小浜湊を経たものであろう(同、「成宗大王実録」元年(大明成化六年)八月朔日条)。このころ寿藺の護送と称し、出雲・石見など日本海沿岸より朝鮮へ遣使する者があったが、多くは守護層より以下の守護代層あるいは有力な国人層のものであったらしい。



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