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第五章 中世後期の経済と都市
   第一節 産業・交通の発展
     三 浦・山内の馬借
      塩・榑をめぐる相論
 天文二十一年(一五五二)になり、里の商人の直買した塩を河野浦の覚善五郎次郎が馬借中に断りなく、しかも新儀の路を通って運送する事件がおきた。そこで馬借中はその荷物を差し押さえたところ、これに反発した河野浦が一乗谷の朝倉義景に提訴するにいたった。義景は証拠の証文類を提出させて審理した結果、今泉浦・山内の馬借中が主張する点に誤りはなく、河野浦の行為は先規に反したものであることが判明したので、先規のとおりに商売すべしと今泉浦・山内の馬借中に安堵している(資6 宮川源右ヱ門家文書三・四号、西野次郎兵衛家文書四三号)。この裁決によって先例どおりの業務が保証された今泉浦・山内の馬借中は、まもなく連署の証文を作成して裁判費用の配分について再確認を行なっているが、その文言から山内は三分の一の荷物運送の権利を得ていたことが知られる。署名する馬借の人数は合計三一名で、人名に添書される地名は「はま」「今泉」「中山」「ゆや」である(資6 西野次郎兵衛家文書四四号)。
 榑を独占的に運送売買したことに関する史料は、年未詳霜月のものしか残されていない(同六八号)。それによると、正観五郎二郎が運送した榑を馬借中が里買と称して押収する事態が生じたが、堀戸宗朝の申入れによって馬借中は押収を解除したので、榑運送の駄賃として一〇〇〇支につき四〇〇文を支払うべしと指示されている。
 ところで、この馬借営業権は売買の対象にもなった。代価は四貫五〇〇文から五貫文程度であった(同三二・三七号)。こうした売券には、公方に沙汰すべき「くんやく」(郡役か)が毎年塩一升・榑一支と記されており、注目される。



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