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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    二 加越の一向衆と朝倉氏との戦い
      大小一揆と弘治一揆
写真229 証如画像

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 加賀の実権を掌握していった本泉寺・松岡寺・光教寺・願得寺の一門四か寺は、藤島超勝寺・和田本覚寺をはじめ多数の亡命寺院を抱え、朝倉氏と緊張状態にありながらも徐々に友好関係を構築していった。ところが享禄期(一五二八〜三二)に入り畿内・北陸の政情が激変し、実如の孫にあたる宗主証如との新たな姻戚関係から超勝寺の地位も向上し(超勝寺実顕室と証如母は姉妹)、ついに享禄四年五月、実如兄弟の加賀在住四か寺派(小一揆派)と超勝寺・本覚寺勢(大一揆派)との間で激しい内紛が生じた(享禄錯乱・大小一揆)。八月になると朝倉勢は能登畠山勢らとともに小一揆派助勢を名目に介入し、十一月の帰陣まで深く加賀国石川郡域まで侵攻した(「朝倉始末記」)。本願寺は大一揆派を強力に支援し、そのため長く君臨してきた四か寺はこぞって退転し、洲崎氏など加賀一揆の有力指導者たちも多数越前や能登へ亡命を余儀なくされた。この錯乱の結果、加賀支配権は超勝寺・本覚寺が掌握することになる。なおこの錯乱との関係は明確でないが、天文元年(一五三二)正月に大野郡穴馬城で合戦のあったことが知られている(資2 宇都宮文書一号)。また永正三年以来久しぶりに、同年には越前国内に本願寺門徒が現存しているか否かの調査・成敗が行なわれてもいる(資7 恵光寺文書一号)。
 天文元年八月と同三年九月には越前へ亡命した加賀小一揆勢が加賀国江沼郡へ侵攻し、同八年十月にも越前勢と洲崎氏らが申し合せて加賀へ乱入するとの噂が流れ(「朝倉始末記」、『天文日記』同年十月七日条)、同十二年六月には「越前より乱入」があった(『天文日記』同年六月十七日条)。また若狭武田氏も本願寺へ合力を要請している。それに対して証如は、斯波勢などが越前へ攻め入ることがあればきっと加賀にいる斯波系の牢人衆を誘って攻めることだろう、これを黙認するということは本願寺側としても合力に相当するはずだと(同 天文七年十二月十日条)、大名勢力からの合力要請は受け付けないという当該期の原則を踏み越えて、かなり前向きに答えている。天文九年に大野郡司の朝倉景高は兄の孝景から国を追われたが、同十年景高は本願寺と交渉をもっている(同 天文十年九月三日・同十二年四月十七日条、資2 内閣 越前へ書札案文三三号など)。
 天文二十四年六月、朝倉方は教景を大将として江沼郡への大規模な侵攻を行なった(堺真宗寺本『私心記』同年六月七日条)。七月二十三日には江沼郡一帯で、証如の一周忌にあたる八月十三日には同郡菅生口・敷地口で激戦が交わされた(資2 尊経閣文庫所蔵文書五八・五九号、資7 横田家文書一号など)。だが九月に教景が没し、翌弘治二年(一五五六)四月ころに休戦・撤兵する(堺真宗寺本『私心記』同年四月二十六日条)。なお四月初旬の休戦交渉のさい、主戦派たる超勝寺教芳は本願寺の使者下間頼言を「毒病死」させ、そのためか超勝寺内衆は「火起請」を取られている(同 弘治三年五月十四日条)。以後、北陸政治史に超勝寺の名は登場しない。天文十五年金沢に御坊が設置されており、すでに超勝寺の存在意義も大幅に減じていた。「反古裏書」(異本)にいう、「越前へ逃カクレ」やがて「生害」(殺害)されるにいたったとの記述はおそらく事実であろう。



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