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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    二 加越の一向衆と朝倉氏との戦い
      敗北後の動向
 一揆が敗北したため、多くの坊主・門徒衆が討死し、寺院・道場が断絶した。諸寺の由緒書・縁起類のなかには、その事実を告げていると想定しうるものが少々見受けられる。例えば永存系一家衆の朝日町栃川西光寺の「由緒書」(『越前・若狭一向一揆関係資料集成』、以下『越前集成』と略)には、「二代目存慶(中略)此ノ人住持職之時断絶」とあり、ほかに「昌蔵寺縁起」「専応寺略縁起」(同前)にも同様の記載が確認される。生き残った一揆勢は、坂井郡から加賀国境へ、また大野郡から奥美濃・飛騨方面へと追い上げられていった。
 一揆に打ち勝った朝倉氏は、「国中ノ道場ヲ破却シ、門徒類葉ヲ追伐シ、百姓・土民ノ所知分・私領等ヲゾ没収」した(「朝倉始末記」『蓮如一向一揆』)。吉崎坊舎は破却され、足羽郡和田の本覚寺は松岡寺の在所である加賀国の波佐谷・埴田(石川県小松市)へ逃れ(「柳本御文集」一三通目奥書、「道宗本御文集」二―二奥書、「塵拾鈔」『真宗史料集成』二)、吉田郡藤島の超勝寺は加賀国塔尾(石川県加賀市)や小松林へ、玄真系一家衆の吉田郡荒川の興行寺は加賀国若原(石川県鳥越村)へ、また大野郡南専寺は越中国遊部村(富山県福光町)へ逃れた(「日野一流系図」)。もっともそれらの同系一族は早くから加賀や越中の各地に寺基を確立しており、一族の本寺が亡命してきても最低限の受入れ基盤は備わっていたといわれている。古刹たる坂井郡砂子田徳勝寺は加賀国菅谷(石川県山中町)へ、吉田郡久末照厳寺は加賀国林・二ツ梨(石川県小松市)へ(『加賀志徴』)、足羽郡宇坂本向寺は加賀国山代(石川県加賀市)へ(「由緒帳」『越前集成』)、藤島超勝寺内衆の下間氏は加賀国荒谷村(石川県山中町)へ亡命している(「大光寺略記」『越前集成』)。このように国内の有力寺院は加賀などへ寺基を移し、以後在国有力寺院は全くといってよいほど史料上から見出せなくなる。越前教団は成立後三、四〇年でついえてしまったのである。彼らの復帰は六〇数年後を待たねばならなかった。
 越前と加賀との戦いで、両国を結ぶ北陸道や海上航路は閉鎖された。加賀・能登・越中の人びとはそれ以来、越中五箇山から飛騨・奥美濃経由で畿内との往来を行なったが、北陸諸国の荘園年貢などは越前国境の封鎖を理由に怠納されたらしい。そのため将軍家は朝倉氏・本願寺両者に働きかけ、永正十五年に国境閉鎖が解除された(『宣胤卿記』同年四月十九日・六月十一日条、「朝倉始末記」)。国境はそれ以後享禄四年(一五三一)まで開かれ続ける。本願寺側も加賀の人びとが年貢などを未進したり戦闘行為に走らないよう、「三カ条掟」を制定しその誓約を求めた。宗外からの公的要請を梃子に、本願寺は加賀に関する対外交渉権を獲得していったのである。



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