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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
    一 蓮如と吉崎
      六字名号・正信偈和讃・御文
写真224 コウボウムギ(筆草)

写真224 コウボウムギ(筆草)

 蓮如の吉崎滞在は文明七年までのわずか四年間であったが、その間に新たな教典類や名号の制定と大量下付が始まり、そして北陸最初の一向一揆が勃発する。蓮如の生涯においても北陸の一向衆にとっても最大の画期となる時期であった。
 吉崎の蓮如は光明十字名号(無碍光)本尊の下付を控えて、六字名号を下付し始める。それは、親鸞以来の楷書体「南无」(「空善記」『蓮如上人行実』七三)とも、当時念仏系各宗派にみられる楷書・行書体の「南無」とも違う、草書体であった。吉崎近辺では、蓮如がその根を筆代わりに使用したと伝えられているコウボウムギが今も育っている。求める人びとすべてに本尊をという意識なのだろうか、一日に二、三〇〇幅書き続けたこともあったといわれる。実際、吉崎膝下の坂井郡はもとより、越前のいたる所に蓮如筆と伝えられる六字名号が多数現存している。しかし改めて他の戦国期歴代宗主筆の名号と厳密に比較検討してみると、伝蓮如筆名号の多さとは逆に、確実に蓮如真筆と断定できる名号は意外なほど少ない。蓮如下付の名号は、大量に下付されたにもかかわらず、いまだ聖的な本尊として丁重に保存されるべきとの認識に達しておらず、そのため懸破れの状態で漸次消却されていったのだろうか。
写真225 蓮如筆六字名号(右:芦原町浄光寺所蔵、左:福井県立博物館所蔵

写真225 蓮如筆六字名号(右:芦原町浄光寺所蔵、左:福井県立博物館所蔵

 文明五年三月には、親鸞の著になる『正信偈』と『和讃』を合本化して開版し、朝勤でその読誦を始めた(「本願寺作法之次第」)。本願寺ではそれまで中国浄土教の祖師といわれる善導の『六時礼讃』などを読誦していたが、畿内に大きな勢力をもつ仏光寺派や北陸の一大勢力たる三門徒派などの親鸞の法系を継ぐ他の門流は、かなり早くからこの『正信偈』と『和讃』を用いていた。蓮如もこれへの追随に踏み切ったのだろう。蓮如の若年時には精力的に教義書を筆写・下付していたが、継職後は全く行なっていない。一部の有力寺院充ての教典下付は無意味と判断し、かわって不特定多数に提供可能な教典を採用し、それを広く一般の人びとへ公開しその読誦を求めていったのである。この文明版とよばれる『正信偈和讃』の版木は、民間の側で作られた「町版」と想定されている。このことは、本願寺が一方的に下付したり取り返したりする意思のないこと、版権や販売権を独占する意思のないことを宣言したものとみなされる。
 御文(御文章)は真宗教義をわかりやすく人びとに伝える目的で作られたもので、最初のものは寛正二年に書かれたが、吉崎滞在時から大量に制作され現在二〇〇通以上が伝存している。蓮如は「あまねく披露候へく候」とその公開を求め、さらに語りかける息づかいまで聞こえるような、蓮如の声そのものとして拝受するように求め、そのために文章を片仮名で表記している。各種の教典類のうちでは冊子形態の御文が最も汚れている。各頁の左右の端には、必ずといってよいほど手垢・土垢が付着しているからである。「土」とともに生きた当時の坊主衆・門徒衆がじかに手にした教典、それが御文だったのである。



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